【短編小説】菊水の恋
夏は夜、恋は一瞬。
彼に初めて出会ったのも、菊水鉾の前だった。
祇園祭の宵山の人混みの中、美しい音色と共に力強い掛け声が響いて。
見上げた先で、あなたと目が合った。
図書館からの帰り道、中学校の前を通り過ぎたら、ちょうど出てきた男の子達の会話が聞こえてきた。
「囃子方って、いいよなぁ」
「女子にモテるしな!」
宵山はいよいよ明日。京都の町は観光客も増え、その賑わいを一段と増している。子ども達の心の中心も、祇園祭でいっぱいになるようだ。
なんだか微笑ましく思っていたら、こんな言葉が耳に届いた。
「俺は、菊水鉾の囃子方、やってみたいな」
菊水鉾。その単語に、思わずどくりと胸が音を立てる。
私が好きな彼も、菊水鉾の囃子方だからだ。
私はこの春に、大学の関係で京都にやってきたばかりだから、よく知らないけれど。確かに神輿洗いの時も、鴨川沿いの屋敷の二階で菊水鉾がお囃子を担当するし、去年の長刀鉾のお稚児さんも今年、菊水鉾の囃子方をやるというから、”菊水鉾の囃子方”というのはすごいのかもしれない。
彼もそのすごい人達のうちの一人なのだと思ったら、なんだか誇らしいような気持ちになった。
とはいえ、私は彼のことをよく知らない。
同じくらいの年で、菊水鉾の上で篠笛を奏でている。
私が持っている彼の情報はそれだけだ。
それでも、私は去年のあの日、彼に恋をしてしまった。
石橋を叩いて渡るような性格だと自負する私が、まさかの一目惚れ。
人生何が起こるかわからない、とはよく言ったもので。
関東から京都の大学を受験したのは、彼に会いたかったからというのもある、なんて親に知られたら、怒られるかもしれない。
そもそも、あの人にはもう、恋人がいるかもわからない。
優しげな瞳、整った顔立ち。あれで彼女がいない方がおかしいと思う。
それでも。この恋が叶わずに終わるとしても。
それはそれでいいような気がする、と思ってしまうから重症だ。
明日は宵山。去年彼に恋をしたのと同じ日に、私は隙を見て、彼に声をかけると決めている。
そのために浴衣を新調したし、お高めの髪飾りも買ってみた。
メイクの研究も、和装に合う髪型も練習した。
いつもは地味めな私にとって、明日は小さな戦いとなる。
菊水鉾の名前の由来となった、菊水の井戸の不老長寿の逸話を思い出す。
それに因むわけではないけれど。
長い時を経て、私がおばあちゃんになっても、この恋を思い出して優しい気持ちになれたらいい。
勿論、願わくば、このこいは成就してほしいけれど。
迫る夕闇の中、お囃子の音が聞こえる。
彼は今日も鉾の上で、篠笛を奏でているだろうか。
ちょっと見に行ってみようかな。
足取りは、家とは反対の方向へ向かうのだった。