『君の不幸が消えないならば、世界をひっくり返すまで。』 第1話
第1話「止まない雨」
あたしたちには消えない枷がある。
雨が止まずに降っている。
だからあたしたちみんな、空を自由に翔べないの。
地上にすらも上がれない。
藻搔いても藻搔いても、暗い水底から這い上がれずに、
きっとただ、沈んでゆくだけ。
そんなものだと、思ってた。
あなたに会うまでは。
この世界は理不尽だ。
降り頻る雨をぼんやりと眺めながら、何度目かもわからない思いが生まれて、心に落ちて、消えていく。
梅雨の放課後は音で溢れている。生徒のお喋り、男子が騒ぐ声、全てが湿気でこもるようで。
だからいつもよりも、聞こえてくるのだ。
クスクス笑う、湿気のような噂話が。
「また一人よ、朝霧さん」
「そろそろ先生にハブってるの気づかれるかもねー」
「でもさ、先生も朝霧さんには関わりたくないんじゃない?」
「仕方ないよねぇ」
クラスに飾っている紫陽花の水替えをしながら、あやめは気づかないふりをする。
だって、そうでもしないと。
「朝霧さんは、人の幸せを奪っちゃうんだから」
自分が壊れてしまうから。
傘を広げて、校舎から外に出ると、一斉にあやめに視線が集まった。
それは決していいものではなくて、あやめは内心ため息を吐く。
(……怖がられてるなぁ)
この春入学してきた新入生も、もう噂話を聞いたのだろう。
まだ幼なさの残る彼女らの瞳には、確かに怯えの色がある。
だからあえて、あやめはなるべく誰とも目を合わせないように歩き出した。
あやめにできることはそれしかない。
……あやめの持つ幸運の力は、他の誰にも分け与えられない。
それどころか、みんなの噂の通り、本当に誰かの幸せを奪っているかもしれないから。
自分の生家である”朝霧”の名を知らない人は、きっとこの国では少ないだろうな、とあやめは思っている。
それほどあやめの家は繁栄している。着手した事業は必ず成功するし、どんなチャンスもものにできる。父の会社は国内産業のトップに君臨しているし、顔が広い祖母は毎日のように全国各地の催事に出かける。
側から見れば、誰もが羨む「勝ち組」だろう。
ーーー「異常なまでに運がいい」ということを除けば。
朝霧家は何かに失敗したことがない。トラブルが起きたこともない。
代わりに周りにいる人に、何か不幸が起きるのだ。
どれだけ他の人が努力して掴みかけた成功も、あやめの家は一瞬で奪いとってしまう。成功したければ、朝霧家に連なって、機嫌をとって生きていかなければならない。
それも泡沫だ。少しでも父の、祖母の機嫌を損ねたら、その瞬間に不幸が起きるのだから。
だから朝霧家の栄光は見た目だけ。誰もが自分たちを恐れていることを、あやめはよく理解している。
ーーー人というのはそんなものよ。自分たちが理解できないものを恐れる、ただそれだけのこと。
祖母はいつもそう言うけれど、あやめは嫌で嫌でたまらない。
自分の運がいいことが。
自分が、朝霧の娘ということが。
父も祖父母も、自分たちの幸運の上にあぐらをかいているだけ。
どんなことをしても揉み消せるから、周りの人を平気で踏み躙る。
(……お母さんがいなくなっちゃったのも、こんな雨の日だったっけ)
早足で歩きながら、ぽつり、とあやめは心の中で呟いた。
あやめの実母は美しくて、とても優しい人だった。無理矢理に結婚させられ、父からも祖母からも毎日殴られ蹴られ罵倒されて。
周囲は巻き込まれたくないからと、誰一人助けてはくれなくて。
それでも母は、必死にあやめを育ててくれていたけれど。
ある雨の夜に耐えられなくなり、あやめを置いて出て行った。
ーーーごめんね、あやめ。あなたを連れてはいけないの。
母はそう言って、泣きながら縋り付くあやめを振り解いて、傘も刺さずに闇の中に消えていった。
ーーーあやめ、どうか、あなただけは。人の痛みをわかる子であってね。
その言葉をあやめの心に残して。
母が死にに行ったのだと知ったのは、その翌日だった。
あやめがまだ7つの頃だった。
母を追い詰めた父も祖父母も、母の死に涙一つ流さなかった。
それどころか父は、泣きじゃくるあやめの頬を引っ叩いて「うるせぇ、泣くな!」と怒鳴りつけた。
ーーー役立たずがこの俺の下に嫁げただけ有難いってのに。ったく、とんだ迷惑な女だ。
ーーー後処理が大変じゃないの、ねぇ、周りになんて言えばいいのよ。朝霧の名に傷がつくって、あの人わからなかったのかしら。
泣いたらまた殴られるからと、必死に耐えていたあやめの耳に届いた、父と祖母の母への侮蔑の言葉は、今もこびりついて離れない。
あの時あやめは、改めて絶望したのだ。
自分の身に流れる血の悍ましさに。
傘を傾けて、空を見上げる。
ざぁざぁと降っていた雨は、少しずつ弱まって。流れていく雲の狭間に青色が見え始めている。
(もうすぐ、虹が出る)
それはあやめにとって当たり前の日常だ。
どんなに運が良い朝霧家でも、天候などの自然現象はどうしようもないらしい。けれどあやめが、朝霧の人間が雨の中を歩けば、やがて雨は止み虹が出る。
側から見れば奇跡だろうが、あやめにとっては呪いの象徴でしかない。
自然の力すら怯ませる、都合が良すぎるこの幸運からは逃れられないのだと、思い知らされるようだから。
(……私、どうして生きてるんだろう)
何千回、何万回と考えたことが、再び頭の中に浮かんだ。
母を殺した忌まわしい血と同じものが、今もこの身体には流れていて。
どれだけ逃げたくても、逃げられなくて。
せめて他の人に幸運を分け与えたいと願っても、一度も叶ったことはない。
「……なんで……?」
思わず呟いた言葉は、水たまりの中に消えていった。
雲間から光が差し込む。前方には嫌になるほどに、大きな虹がかかっている。
ふと、いつかの母の言葉が蘇った。
ーーー生き物は死んだら、みんな虹の橋を渡るのよ。
(……あたしも、渡れるのかな)
それは純粋な疑問だった。穢れきった血のあやめでも、死んだら許されるのだろうか。虹の橋は渡れるのだろうか。
どうせ死にたくても、きっとあやめは死ねないだろう。朝霧家唯一の跡取りである彼女は生きるしかない。そう、父が、祖母が、望んでいるから。
(でも、知りたいな)
何かに呼ばれるかのように、あやめは歩き出す。
家へ帰る道ではない。もっと遠くへ、どこか遠くへ、思いつくままに行ってみたい。
それが今のあやめにできる、唯一の自由なのだから。
バサ、と傘を閉じる。
あやめはこの日初めて、虹を美しく感じた。
どれくらい歩いただろう。
さらさらと、かすかな、けれどあまりにも綺麗な音が鼓膜に届いて、あやめははっとする。
(雨音……?)
そんな、どうして。もう虹は出ているのに。
虹が出たら、雨は止んでしまうはずなのだ。…いつだってそうだったのだから。
心臓が早鐘を打つ。……何かがおかしい、そんな予感がする。
周りを見回す。……雨なんて降っていない。なら、この音はどこから?
空を、虹をもう一度見上げて、あやめは目を見開いた。
「……あ」
虹の一部が、消えている。光ではっきりと輝く虹が、いつだって完璧な虹が、小さな雨雲に覆われて。
あやめはそこに、雨が降る場所に向かって駆け出した。
変わり映えのしない絶望が変わる、確信があったから。
雨はあまりにも弱い。いつ消えてしまうかわからない。
(間に合って……!!)
前方の信号が青に変わる。人並みが自然と割れていく。
強い風があやめの背中を押す。
走って、走って、走り続けて。
ばっと、目の前が開けたような錯覚があった。
そこは、なんの変哲もない、大通りの交差点だった。
雨粒がキラキラと輝きながら、降り注いでいる以外には。
「きれい……」
あやめは思わず呟いた。今まで見てきた何よりも美しい風景だと思った。
輝く雨の中、少年が立っている。
傘もささずに立っている。
俯いているから、顔が見えない。けれど、あやめの直感が、心が叫んだ。
ーーー助けなきゃ!!
助ける?どういうこと??あやめが困惑した瞬間だった。
信号が青に変わって。
キキィィーッ!!
ものすごい音がして、道の向こうからトラックが飛び出してきた。
突然のことに、周りがどよめく。
トラックは暴走しているのか、勢いが落ちない。運転手が真っ青になってハンドルを切ろうとしているのが見えるけれど、止まらない。
このままだと交差点に突っ込むだろう。
横断歩道を歩き出していた、少年の元へと。
少年が顔をあげ、トラックに気づいて目を見開く。でも、避ける時間すらない。
(ーーーはねられちゃう!!)
全身の毛が逆立って、あやめは本能的に叫んだ。
「危ないっ!!!」
その瞬間。
ガシャーンッ!!
トラックが、青年の目と鼻の先で方向転換した…と思えば、一気に歩道に乗り上げて、工事現場の簡易壁に突っ込んだ。
トラックからもうもうと煙が上がり、周りが騒然となる。
あやめは自分の心臓が縮み上がるような思いだった。…事故を見たのは、初めてだった。
雨は止んでいた。虹ももう消えている。
(……あの人は!?)
横断歩道を見やれば、先ほど轢かれかけた少年は、状況がよく飲み込めていないのだろう、唖然と立ち尽くしている。
(よかった、怪我はないみたい)
少し安心したけれど、何か引っかかる、と心がざわついた。
(……あの人……”怖がってない”……?)
目と鼻の先までトラックが迫ってきて、ギリギリで助かったというのに。
少年の表情には、恐怖が見受けられない。唖然としてはいるけれど…どちらかというと、”助かったことに驚いている”ような。
……少年の口が小さく動く。
遠くから救急車のサイレンの音で、よく聞こえない。でも、なぜか聞かなくてはいけないと、本能が警鐘を鳴らすから。
耳を澄ませたあやめは、その音を捉えた。
ミシ、ミシッ、と鳴る、身の毛がよだつような……。
はっとして顔をあげれば、工事現場のクレーンのワイヤーロープが、風もないのに不自然に揺れているのが見えた。
ひゅっ、と喉の奥で息が悲鳴をあげる。…クレーンには、鉄筋が吊られている……!!
考えるより先に、身体が飛び出していた。
すごい勢いで少年の元へと駆け寄って、その手を強引に取ると、彼は目を見開いた。
「っ……!?」
少年が口を開くより先に、あやめは叫んだ。
「急いで!!”落ちる”!!」
瞬間、パァン、と頭上で何かが弾けた。
次いで、ヒュウウウ、と、重いものが落ちてくる音…!!
キャアァァ、と誰かの悲鳴が聞こえる。あやめはまさに死ぬ気で走った。
鉄骨が落ちてくるのに気づいたのだろう。背後の少年が息を呑んで、繋いだ手がぎゅっと握られる。
その温かさを、絶対に失うものか、とあやめは思った。
(ーーー死なせない!!!)
脳裏に浮かぶのは、最後に見た母の背中。
もう、あんなことは起こさせない。見たくない、死んでほしくない。何もできずにいるのはもう嫌だ……!!
(一回くらい、救わせてよっ!!)
いるかもわからない神に向かって、あやめは叫んだ。
今まで、幸運だったのは朝霧の一族だけ。それ以外は不幸になる、あやめがどんなに願っても。
だから周りから気味悪がられて、友達なんてできたことがなかった。
でも、せめてこの少年は。
死がすぐそばまで迫ってきているこの人は、救いたい。
救えなければ、あやめはもう、自分が幸運な理由が、生きている理由がわからない!!
遠くへ、少しでも遠くへ!!彼が死ぬ可能性を、少しでも低くするために!!
次の瞬間だった。
ドゴォォォン!!!
耳をつんざくような激突音と共に、あやめは風圧で吹き飛ばされた。
(あ……!!)
繋いだ手が、離れていく。
(嫌だ……!!)
今、あやめが離れたら、終わりな気がした。
必死に手を伸ばそうとして……、がしっ、と肩を掴まれた。
背中に腕が回ってくる。
抱き寄せられている、と理解するより先に、身体が地面に叩きつけられた。
「うっ……!!」
転んだことすら数えるほどしかないあやめは、その衝撃に驚いたけれど。
彼が…、あやめが助けようとした少年が庇ってくれたから、痛みはほとんど感じなかった。
「ってぇ……」
「っ!!大丈夫ですか!?」
下敷きになっている少年が痛そうな声をあげたので、あやめは慌てて体を退けた。
よくよく見れば、佇まいからして年上だと思っていた彼は、案外顔立ちが幼なげで。
彼は起きあがろうとして、心底驚いたように目を見開いた。
「怪我、してねぇ……?」
体のあちこちを動かしながら、唖然とする彼を、あやめも言葉を失いながら見つめることしかできなかった。
(怪我を、してない……?)
鉄骨が落下した風圧で吹き飛ばされたのに。
どうして、なんて考える必要もなく、心が理解していた。
(あたしの”幸運”が、作用した……!!)
この状況を幸運以外に、何と呼べばいいのだろう。
今までどんなに願っても、一欠片さえ他人に作用しなかった、あやめにとって呪われた力が。
無意識にあやめの瞳から、涙がぽろりと零れ落ちた。
「……よかっ、たぁ……」
ようやく誰かの、役に立てたのだ。
静かに泣くあやめに気づいて、彼はぎょっとしたようで。
しばらくおろおろとしていたが、やがて、そっと口を開いた。
「……あんた、何者なんだ」
「え……」
「なんで俺を、助けられたんだ」
彼の瞳は、驚きと疑念が渦巻いていた。
どういうことですか、という前に、彼が続けた言葉に、今度はあやめがぎょっとした。
「……”不幸”に付き纏われてる俺を、何で助けられたんだ……?」
「改めまして、私はあやめ」
「……俺は、茅早だ」
「さっきは庇ってくれて、ありがとう」
「あんたも俺のこと助けてくれただろ、ありがとな」
あの後、駆けつけた警察や救急隊員達に事情聴取をされ、念の為の精密検査を受けて。病院の受付で結果を待つ間、二人は改めて名乗りあった。
警察に事故の説明をしている時、同じ14歳だと知ったので、それまであった”見ず知らずの他人”という距離が、ほんの少しだけ縮まったようで。
あやめも、見た限りでは茅早も、先ほどよりは落ち着いていた。
「あなた……運が悪いの?」
声を顰めて、恐る恐る尋ねてみれば、茅早は小さく頷いた。
「比喩的な話じゃない。俺は文字通り本当に”運が悪い”んだ。何をやってもうまくいかない。それだけに留まらず、周りにも不幸は波及する」
でも、と続けられる声は、どこか困惑を隠しきれていなかった。
「俺は今回、あんな大事故で怪我一つしてないし、周りの通行人にも怪我はなかった。トラックの運転手ですら、軽い骨折程度で済んでる……こんな奇跡的なことは、普通ならあり得ないはずなのに……」
茅早の瞳が、真っ直ぐあやめを射抜いた。
「轢かれかけた時、あんたの声がしたのを聞いた瞬間、トラックが向きを変えた。そして、あんたが俺を連れ出さなかったら、俺は鉄骨の下敷きになってた。……この奇跡は、あんたが作り出したようにしか、俺には思えない」
確かに、とあやめは思った。彼の言うことが本当ならば、先程の事故で確実に”不幸にも”茅早は死んでいただろう。
「教えてほしい。あんたは本当に……何者なんだ?」
静かに問いかけられて、あやめは一つ息を吸った。……なるべく言いたくはなかったけれど、この事象を説明するためには言うしかない。……自分の不思議な、呪いのような力のことを。
「あたしは……あなたとは真逆」
端的にそう伝えれば、合点がいったのか、茅早の目が大きく見開かれた。
「嘘だろ……?」
思わずと言ったように、声が漏れる。
「そんなことが……いや、現に俺が”そう”なんだから、逆もあり得るか……」
考えたこともなかった、としみじみと呟く茅早に、あやめはでも、と続けた。
「あたしのこの力は、一族の血を引く人間にしか作用しないはずなの」
「は……?」
「今までずっと、いろんな人に幸運を分け与えようとしても駄目だった。それなのに今回、あなたを助けることができた……わかるというか、感じるの。今回のことは、あたしの力によるものだって」
「直感的に?」
あやめが頷くと、すんなりと茅早は「なるほどな」と頷いた。
「俺も似たようなことがよくある。周りで不幸が起きる度、心が痛んで…俺のせいだと、感じるから。あんたはその逆なんだろうな」
あやめは聞いていて、胸が痛くなった。……茅早の言葉が、隠しきれない悲痛さを抱えていたから。
(この人は、日常的に感じてるんだ……)
人が不幸になっていく様を、自分の力のせいだと。
周りから「幸運を吸い取る一族」と揶揄されているだけでもあやめは辛いのに、この人は、茅早は、それを自分のせいだと、常に知覚しているというのか。
(なんてひどい……)
そんな思いが顔に出ていたのか、茅早がひらりと片手を振った。
「別に、そんなに気にしなくていい。これは俺の問題だし、あんたが幸運だからって羨むとかないから」
「どうして……?」
「それはそれで、大変なこともあると思うから」
当たり前のことのように、茅早はそう言った。
「……へっ……?」
言葉をなくすあやめに、茅早は続ける。
「さっき言ってただろ、どんなに願っても、自分の力は他人には作用しないって。……違ったら悪いけど、それはつまりさ、目の前で不幸が起きても止められなかったとか、あるんじゃないかなと思ったんだ」
なら、妬むことないだろ。
その言葉ははっきりと、真っ直ぐにあやめの心に届いて、綺麗な波紋を描いていった。
つぅ、と涙を一筋流したあやめに、茅早がぎょっとする。
「わ、悪い、変なこと言ったか、俺」
「ち、が……嬉しくて……」
慌てて涙を拭っても、涙は止まってくれない。……そんな優しいことを言われたのは、初めてだった。
茅早はどこかおろおろとしている。言葉遣いはつっけんどんだけど、この人は優しい人だとよく分かった。だから。
「……ありが、とう……!!」
みっともなく嗚咽を漏らしながら、なんとか声を絞り出すと、茅早は眉を下げて、ほんの少しだけ笑ってくれたのだった。
病院から外に出ると、辺りはすっかり晴れて、夕焼けがびっくりするほど美しかった。
「本当に良かった、あなたに怪我がなくて」
あやめがそう言えば、茅早は「あんたこそ」と笑った。
検査の結果は、思ったとおりどちらも怪我はなし。どうして怪我がないんだと、担当医師が訝しむほど、本当に何もなかった。
「本当にすごい力だな、あんた。これだけ俺と関わっておいて、不幸なことが何一つ起きないんだから」
しみじみとそう言う茅早に、あやめははぁ、とため息をついた。
「その”あんた”ってのやめてよ。あたしはあやめって言ったでしょ」
「……女子を名前で呼んで良いものなのか?」
明らかに困っている茅早に、あやめは笑顔で答えた。
「いいのいいの、あたしは気にしないから」
「けど……もう会うこともないだろ」
「えっ」
衝撃で固まるあやめに、茅早は不思議そうに首を傾げた。
「?これでさよならじゃねぇの??」
「何言ってんの!!??」
あやめは思わず叫んだ。周りの人が振り返るが、そんなこと気にしていられない。茅早は、今、何て?
「これからもあたしといたら、運が良くなるかもしれないとか思わないの!?」
「あぁ……」
初めて気づいたかのように、茅早は間の抜けた声をあげた。
「でも、今回はまぐれかもしれないだろ。それに俺といたら、逆にあんたが……、あやめが不幸になるかもしれない。そんなリスキーなことできねぇだろ」
「それでもいい!!」
間髪入れずにそう言えば、茅早は目を瞬かせた。
「……は……?」
「あたし、今まで、自分たちだけが運が良いのが嫌で嫌で仕方なかったの。こんなことが続くなら、死んじゃいたいとさえ思ってた」
茅早が、はっと目を見開く。あやめは微笑んだ。
「でも、そこにあなたが……茅早が現れた。あたし初めて、運が良くて良かった、これまで生きてて良かったって思ったの」
「あやめ……」
「だから、あたしの友達になってよ」
「は……?」
驚きを通り越して、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をする茅早に、あやめは片手を差し出した。
「あたしの力が、どれだけあなたに効くか知りたい。もっとあなたの痛みを知りたいから」
茅早は暫し、差しのべられた手を見つめ……、やがて、ふはっと破顔した。
「ほんとに変な奴だな、お前」
茅早が手を伸ばす。
「後悔しても、知らねーからな」
再び、二人の手が重なった。
道路を渡った後も、あやめは時々こちらを振り向いて、元気よく手を振っていた。
一見、呑気に見える。でも、茅早はもう知ってしまっていた。
……”死んじゃいたいとさえ思ってた”と言った時のあやめの表情は影っていて、本当に消えてしまいそうな危うさがあって。
同じだと、思ってしまった。
何をやっても不幸な自分と、何をやっても幸運なあやめ。
正反対に見えるけれど、心の底は案外同じなのかもしれないと、そう思ってしまったのだ。
ハッ、と自嘲がもれる。
(もう誰も、信じないって決めたのにな……)
信じるたびに裏切られてきた。あまりに不幸が続くから、周りも運が悪くなるから、誰もが茅早を恐れて去っていく。
そんな毎日に、うんざりしていたから。
さっきトラックが突っ込んできた時。正直言って、死を受け入れようとする自分がいた。……両親と同じところに、ようやく行ける、と。
それでも、奇跡が起きたのだ。
自分を救えて良かったと、泣くような奴を初めて見たから。
もう少し生きてみたいと、柄にもなく思ってしまったのだ。
(……これが、吉と出るか、凶と出るか)
わからない。実はこれが、より不幸な未来への幕開けなのかもしれない。
けれど今は、ほんの少しの可能性に賭けてみたいのだ。
シャツで隠していた、首元の勾玉を取り出す。
亡き両親の形見であるそれは、夕日を受けてきらりと輝く。
(……まだ、そっちには行かないよ)
自分が幼かった時に死んだから、顔もよく思い出せないけれど。
遠い記憶の中の両親の面影を追うように、茅早は勾玉をそっと握った。
(もう少しだけ、生きてみる。……兄さんのためにも)
あやめが帰って行った道をもう一度眺めてから、踵を返して、茅早は病院へと戻っていった。
未だ目覚めぬ兄を見舞うために。
これは、あまりに幸運な少女と、あまりに不幸な青年の出会いが織りなす、
千年かけた思いが成就した、幕開けの瞬間だった。
雨はまだ、止んでいない。
(続く)
※この作品は長編小説を小分けにしてシリーズ化してアップしています。
また、第14話~第17話にかけて大幅に改変したため、タイトルに(改訂版)と言う記載があります。
第2話:
第3話:
第4話:
第5話:
第6話:
第7話:
第8話:
第9話
第10話
第11話
第12話
第13話
第14話
第15話
第16話
第17話
第18話
第19話
第20話
第21話
第22話
第23話
第24話
第25話
最終話