「がんばらない」こともないか
「自分らしさ」をテーマとしている発信で近頃「がんばらない」とか「無理をしない」という言葉をよく目にします。
この言葉、いい言葉だと思うのですが、この字面をそのまま受け止めてしまうともったいない。
多分、このセンテンスの前には隠れたカッコ書きの前置きが隠されている…「具合が悪いなら」とか「頑張りすぎているあなたは」とか「無理しすぎている君は」とか。
状況だとかによって「もうちょっとがんばれ」「もう一歩踏み込め」ば大きく何度か視野が広がる場合も、というより広がる場合の方が多いんじゃないのかな。
こんなことをいうと「がんばっている人に向かって『がんばれ』っていうのは無責任だ。」「すでにがんばっている人に向かって『がんばれ』というなどとはなんて残酷なやつなんだ。」って思うでしょう。
その通りなんです。前文で「状況によっては…」と条件をつけましたが、状況が分からない人に対して「がんばれ」というつもりは毛頭ありません。
例えば、ネット上だけでの知り合い、フォロワーさんやフォローさんに「がんばれ」と声援をおくることはしません。
しかし、逆にそのような人に「無理しない方がいいですよ。」「もうがんばらなくていいですよ。」っていうのも無責任だと思うんです。
仮に私が仕事で弱気な投稿をSNSにしたとします。それを見たフォロワーさんが「がんばる必要はないですよ。」とコメントする。しかし、その投稿を上司が見ると「お前、何も仕事してないじゃないのよ。そんな程度で凹んでないでやる気だしなさいよ。」って思っているかもしれません。そんなところへ「がんばる必要はないですよ。」なんていえばメチャクチャ無責任ですよね(笑)
まずはこちら側の問題…「事情が完全に分かっていない相手に行動の変化を促す助言はしない。」
「そうはいっても知ってる人が凹んでるんだから優しい言葉をかけるのが知り合いってもんでしょ?」
うん、その通り。だからこそ「大変だね」「僕でもその状況になれば凹むよ」「早くその状況が好転するといいね」など相手が困った状況の感想だけいえばいい。もし相手から「…で、相談なんだけど…」と助けを求められたら詳しい状況、その人自身はどうしたいのか聞いたうえで助言をするのがいい。そのときにひょっとしたら「それ以上がんばらなくていいですよ。」って言葉は必要になるかもしれません。
先ほど「隠されたカッコ書きの前置き」の話をしましたが、ちゃんとそれを踏まえないと「がんばらない」をさぼるため、嫌なことから逃れるため、「変わること」への拒否感の肯定として言い訳に使っている人がかなりの数いるんです。
もう少しがんばるべきか否か悩むことにぶつかった時は「何のためにそれをし始めたのか?」…それをやることのそもそもの目的を何回も何回も、もういいだろうってまで考えることをおすすめします。
そうするともう少し歩を進めるべきか、もうこれ以上先には進まないか、それとも別の登山口からまた登り始めるか、別の山にすべきか…などの気持ちが湧いてくると思います。
それともう一つ「がんばらない」の前に隠されたワード…「人のために」。
私個人的には「人のために」なにかをする時に「がんばる」って思った時点で「嫌々仕事」になってると思うんです。もしくは「上から目線仕事」に。
たまによかれと思い人の仕事を手伝っているのに相手が調子に乗ってきて、本来その人がやるべき仕事をあれやこれや押しつけてくることありませんか?
そんなときは「がんばる」にならないうちにきっぱり断る…「ごめん。私の仕事が終わって時間ができたら手伝うけどそれまで待てる?」と。それで怒るような友達、同僚は付き合う必要はありません。
とにかく「がんばる」のは自分のため。何か壁にぶつかった時はさっきもいったように「何のためにそれをし始めたのか?」を考えることと「これを成し遂げたら自分にどのようなことがおこるか?」を想像すること。
「がんばる」のか「がんばらない」のかは全て自分で判断すること。
人のためにいろいろしてあげることはステキで大切なことです。
ただし、もし人から「他の人のためにがんばってるね。自分のことは大丈夫?」と友達からよくいわれる人はもう一度自らを振り返ってみてください…「自分の問題解決から目を背けるために人に尽くしている「ふり」をしていないか」と…こういう人、けっこう多いと思いますよ。