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難病を受容するということ

息子、あつぼん所長は16年前の1月、母である私の理由で(その前々年、子宮筋腫の手術経験あり)帝王切開にて誕生した。1984gと低体重での出産ではあったが、予定日より二週間早い計画帝王切開だったため、やや小ぶりな赤ちゃんというだけで、特に問題となるところもないという説明を受けた。私たちにとって初めての赤ちゃんだったこともあり(私の両親、妹にとっても)、彼との出会いは感動的だったし、一生大切にすると心に誓ったことを鮮明に覚えている。
その後すくすくとは成長せず、哺乳力の極めて弱い赤ちゃんだったため、私は一日中、搾乳と授乳を繰り返し、その日の哺乳量を克明に、そして執拗に記録し続けていた。
 市の4ヶ月検診などでは体重の増加が充分でないと保健師だか助産師だかに指摘され(当時の私には叱責にも感じられた)私はさらに神経質になっていった。
そんな中、生後7ヶ月のとき、低体重児のためのフォローアップで受診していた新生児科の発達に疑問をもった医師の勧めで受けた精密検査の結果が、ミトコンドリア病の一種であるリー脳症だろうとのこと。
いろんな病気の子に関わってきたであろうそのベテラン医師が、ものすごく言いにくそうに、そして半ば泣きながら「長くは生きられないかもしれない」と告げたのだ。それから夫が職場からタクシーで病院に来るまでのことを私はしっかり記憶はあるのだが、自分の感覚がなくなってしまっていたようだった。病院の廊下で我が子を必死でただただ抱きしめていると思っていたのだが、まわりの患者や病院のスタッフが 代わる代わる「大丈夫ですか」と尋ねてきていた。どうやら私は号泣していたらしい。
   見えている世界に色がなくなり、食べるものの味もしなくなった。テレビの中の楽しげな景色が受け付けなくなった。そして眠れない。私は眠れなかったのだったが、夫は眠らなかった。難病告知の日から数日、眠ることをせずインターネットで片端からリー脳症について調べていた。3日ほど経ち「わからない、なにも詳しいことはわからん病気だそうだ」と言った。わからないのならもう調べることはなにもない。その日以来、私たち2人はリー脳症について調べることをパタリとやめて今に至る。
 元来、病気とは誰もが知っているポピュラーな病名であったとしても経過や症状は千差万別。その人その人が病と向き合っていくしかないものなのだ。しかし人は何らかの救いを求め、他者の闘病談を読み、病気について調べる。果たしてそこに本当に救いはあるのだろうかと、私は思う。
   その頃の私たち家族のことを親族はかなり心配し、入れ替わり立ち代わり様子を見に来てくれた。私の父などは、私が息子とベランダから身投げ(我が家はマンションの5階)をしないかとずいぶん案じたようだった。しかし不思議と私も夫も絶望はしていたものの逃避というよりは、この先どう生きていくか、と考えていたように思う。
   ずいぶん長い間、落ち込んでいたような気がしたが、あとになって当時撮影していた写真などからいろいろ事実関係を整理してみると、実はほんの2週間かそこらで立ち直ってるのである。息子あつぼんの笑顔である。まわりが自分のことで落ち込んでるのを知ってか知らずか、オウオウと喃語でしゃべり、小鼻を膨らまして私たちの顔を覗き込む。自分の指をしゃぶっては大笑い。100万人とか200万人に1人の難病かもしれん。が、この子は今、こんなにも生きているじゃないかと。
  この子と生きていこう。家族3人、しっかり前を向こうと思った。私たちに再び色のある世界や、食べ物の味を取り返してくれたのは他ならぬあつぼん自身だったのだ。

  

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