捨てるのは ふたつの感情だった
もし、「自分の終わり」が、いつなのかとわかるのであれば、やりたいことが満載の私でも、自分の身の回りの整理を始めるだろう。
物が多すぎるので、最期までに必要なものだけを残し、思い出としてとってあるものは、自分で捨てる。
だいぶ捨ててはいるものの、まだまだ、相当数の物を捨てることになるだろう。
誰かがやるというのは、考えにくいので、(なら、今からやっとけよ!)と、もう一人の私が、突っついてくる。
確かにそうなのだ。
私はいつ死んでもおかしくない年齢になっているので、いつ死んでも、困らないように、身の回りの整理をしていかなければならないのだ。
結局、今のところ、何かに使うだろうと、いろいろなものが家にあるし、私以外だ誰も使わないだろう。
(なら、捨てろよ!)
たとえば、私の使い終わった手帳は、かなり前のものからとってある。
今、この文章を書いていて、もういらないなと思った。
さて、物事って、昨日まで自分の常識だったとしても、何かのきっかけで、「なんで、それを自分の常識にしていたんだろう?」と、思うことがある。
歴史の中で、あんなに信じていたことが、ふとした瞬間に「何やってたの?自分?」と思えることが、笑える。そういうものから捨てればいいんじゃない?
だから、やっぱり捨てるのは、思い出の品なのだろうな。
そして、
もう読まないであろう本。
普段から着ていない洋服。
普段から使っていない調理道具やお皿。
押し入れに入りっぱなしのお客さん用にと、とってある寝具も捨てよう。
だいたい、ここの家に引っ越してきてから泊まったお客さんの数は、片手にも入らない。
文房具も普段使いしないものは、もう捨てよう。
これこそ、いつか使うだろうと思って、とってあるので、量としてはたいしたことはなくても、捨てるべきなのだろう。
場所があるから、持っていても、今は、困らないのだ。
それがよくない。頭ではわかっている。
でも、後回しだったね。
だから、頭の中にある感情から、なぜとっておくのかを考えてみよう。
「何かに使うだろう」
「生きてきた証」
この二つの理由で、物があるのだとイメージができた。
せっかく買ったのに。
また使えるかもしれない。
必要な時がやってくるかもしれない。
その時にお金を出して買うことはもったいないというケチ。
単にケチなのだ。
昔の自分を残しておきたい。
自分大好きなんだな。
こういうことをしたんだよと、だれかに話したい。
単に、自慢したいんだな。
そういう、ケチな自分は捨てられないのか?
そういう、自分大好き人間を捨てられないのか?
そこから捨てた方がよいのではないか?とさえ思う。
自己分析すると、
はずかしい(笑)
この先の方が短いんだから、
そこから捨てることにしよう。
捨てることは好きだから。
要らないと思えるものは、簡単に捨てられるようにもなっているんだから。
捨てるという作業には、
まさか自己分析が必要だったとは(笑)
明日死ぬぞとなってからでは間に合わない。
ふたつの感情から、捨てて行こう。
(写真:山梨県甲府市 2019年4月撮影)