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水戸射爆撃場の歴史3
毎年多くの来園者が訪れる国営ひたち海浜公園をはじめとする常陸那珂地区は、戦後はアメリカ軍の水戸対地射爆撃場として、戦前は日本陸軍飛行学校として、江戸時代は千々乱風伝説が伝わる場所でした。
そんな歴史を紹介します。(勝田市史料Ⅴ 昭和57年1月発行から内容を再編しました)
飛行場工事の労働力
農家の勤労奉仕
1938年8月25日に起工式が行われ、1939年3月19日に水戸飛行学校は下志津から転営してきた。10月22日に公式に開校式のはこびとなった」。
起工から敗戦まで、男手の多くを兵士として召集されたあと、地元農家は自家の農業経営をかえりみる暇もないほどに、飛行場工事の無償の労働率仕に駆りたてられ続けたのであった。
学童、女子青年団の勤労奉仕
建設工事が一段落した昭和1940年以後、学童や女子青年団の勤労奉仕が目立つようになった。
<1940年>
7月13日 飛行学校飛行場草刈、高等科児童之ニ当ル。
9月27日 女子青年団飛行場草刈。
<1942年>
7月13日 飛行場草刈奉仕、午前八時ヨリ作業開始、高一、二男女計百五十名、引率職員五名。
12月9日 女子育年団飛行場草刈作業ニツキ宮田訓導引率。
<1943年>
9月17日 女子宙年団員七十名明野陸軍飛行学校水戸分校奉仕(移転ニツキ)。
<1944年>
3月9日 高二男女飛行学校掩体壕造築勤労奉仕ニ出動セリ。
4月4日 鹿志村指導員飛行場ノ勤労率仕ヲナス。
4月6日 鹿志村指導員飛行場ノ勤労率仕ヲナス。
4月17日 飛行場第三期拡張工事打合セニ付、村役場ニ於テ午前十時ヨリ須藤教頭打合セニ出席、但今回八十六歳以上六十歳迄ノ者ニ付学童ノ参加セザルコト。
4月10日 高等科児童航空隊兵舎ノ勤労奉仕ヲナス。引率黒沢校長、住谷、小泉、青塚訓導、高野教諭。
4月22日 高一女航空隊本部作業場へ勤労率仕ヲナス。引率者吉塚訓導、鹿志村指導員。
6月2日 授業第二時後高等科児童爆撃場ノ開墾作業ヲナス。
6月3日 軍用地開墾作業、高等科児童、授業第二時終了後、午後全職員参加指導ス。
6月5日 高等科児童軍用地ノ開望作業ヲナス(授業二時限後)
6月6日 高等科授業第二時後軍用地ノ開墾作業ヲナス。
6月7日 高等科児童軍用地ノ開望作業ヲナス。
6月9日 高等科児童軍用地開墾作業並ニ陸稲播種ヲナス。
6月12日 軍用地開墾(高等科児童)
6月16日 航空本部へ勤労奉仕(高二男授業二時限後)。
7月6日 高二男軍役奉仕ヲナス。
7月7日 軍役奉仕高等科第一学年男。
7月10日 高一軍役奉仕。
7月12日 高一男及高二男一斉軍役奉仕。
7月13日 軍役奉仕高二男。
8月2日 飛行場草刈奉仕高一男女児童。
8月3日 飛行場草刈率仕高二男女児童。
7月5日 女子青年団馬渡支部飛行場草刈奉仕。
8月5日 女子青年団長砂支部飛行場草刈奉仕。
9月27日 高二長砂ニ於テ軍役奉仕ヲナス。
12月19日 飛行場草刈奉仕高等科児童。
12月20日 飛行場擬装作業奉仕高等科児童。
12月21日 飛行場擬装作業率仕高等科児童。
以上が、航空部隊の群馬県新田飛行場移駐までの記録である。特に1944年になると、第3期拡張工事にこそ学童、女子青年の直接の参加はなかったものの、食糧増産のための軍用地開墾を含めて、学童の勤労奉仕は極度に増加した。もちろん、勤労奉仕への動貝は飛行場関係だけではなく、多方面にわたっているので、学童の学習時間の削減は学校教育が耐えることのできる限度を越えていたといえよう。
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朝鮮人の強制労働
磯崎の記憶では、朝鮮人が使われたのは工事開始から2年間ぐらいとしている。しかし、時期についてのこの記憶は正確ではないようだ。労働力不足をおぎなうための朝鮮人労働力の朝鮮からの連行が政府によって認可されたのは14年7月末であり、実際にこれが実施に移されたのは9月以降であった。また、新聞によればすでに紹介したように、第1期工事の請負業者は鴻の池組と村松組である
強制労働の朝鮮人と地元住民
この強制労働をさせられていた朝鮮人労働者と地元住民との交流に関する話が語られている。
「一般人は絶対入らないんです。その朝鮮人の工事組の現場へは。別にきり離して別の一角を。部落ではあまりにも気の毒になって、我々日本が戦争をして他国の異人を使って、ろくなものを食べらせられない。ろくなものを着てない。見るにしのびないで、婦人会で特産のかんそういもを家庭から集めて、それをいい加減に処理されちゃったんでは困るから、こっちから特に願って婦人会が慰問行ってんだから。直接に渡したいから航空本部へ行って、あるいは婦人会を現場まで送りこんで、婦人会がこう一人一人にみんな渡したんです。涙ながして喜んだね。おがんで」
ここには、朝鮮を植民地として支配していた当時の日本、朝鮮人農民をその故郷からむりやりに連行して強制労働に従事させた当時の日本政府、朝鮮人労働者を人間としてではなく奴隸として扱った日本の企業家、そういうものとはまったく違った日本の民衆の姿を見ることができる。
これらの朝鮮人労働者が死亡した場合「役場ではそういう場合には死亡届を出して、あとは火葬してその部落のお寺に安置したりなんかした」。
戦争が終ったとき、那珂市菅谷あたりに多数の朝鮮人がいたという。建設途上の水戸北飛行場の飯場があったのであろうか。
「終戦早々に直接役場へ5、6人やってきました。それは労働者で死んだひとっちをどういうふうに処置したかという」調査のためであった。その結果「ここの部落は非常にその暖かい気持で保護してもらったということが帳簿なんか調べてわかってね。で感激して帰ったの」という。
心暖まる話であり、近代の日本と朝鮮との長い不幸な関係の歴史の中で、特にきびしい戦時中という情勢のもとで、勝田市域の住民がこのような歴史を生みだしたことは、誇りとしてよいであろう。
…4へ続く