![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/103517320/rectangle_large_type_2_fee7f68ce98594619251ce68d760bfb9.jpeg?width=1200)
ヤンサマチ~昔々行われていたお祭り
その昔行われていた盛大なお祭りを紹介します。昭和57年発行の勝田市史料(水戸射爆劇場の歴史)から
絶えた祭
千々乱風伝説が砂丘に埋もれた村の歴史を語る伝説であるとするならば、ヤンサマチは砂丘に跡を残して後を絶った祭を思い起こさせる言葉である。「お磯成り」「浜下り」などと呼ばれる神事と結びついた競馬が長大な砂浜にくりひろげられたのは、昭和4年(1929)が最後であった。それ以後、農村は不況に沈み、祭どころではなくなった。
段村が不況から立ち直ったとき、日本はすでに戦争に突入していた。ヤンサマチの競馬を復活したくとも、土地はすでに陸軍の飛行場および射爆撃場として強制買収され、馬は軍馬として徴発されていった。
戦後、土地は引きつづいて米軍対地射爆撃場として接収され、その間に、農用馬は耕耘機にとってかわられ、農村から馬の姿が消えた。射爆撃場は返還されたが、伝統行事としての祭の復活は至難である。跡地利用の開発によって、砂浜も姿を消そうとしている。変貌した砂丘地帯に、馬にかわってモー夕ーの爆音も高く車が走りまわる施設が国の手によって建設されるという。今や、ヤンサマチも伝説と化してしまった。今のうちに、その歴史を記録にとどめておこう。
お破成りの起源と伝承お磯成りについて、酒列確前神社には、次のような伝えがある。
「後鳥羽天皇建久二年四月二日、源頼朝筑波山二詣テ、諸国ノ大小名随従ス、頼朝、茂木四郎ヲ召シテ、国内二尊神アリヤト問フ、答テ日ク、東方二酒列磯前神社アリ、毎歳四月七日ヲ以テ、那珂三十三村ノ諸神、咸ナ磯前二出輿シテ祭事ヲ行ヒ、競馬アリト、頼朝乃チ四郎ヲ遣ハシテ神馬ヲ奉ラシ厶、其供奉ノ士柴田中務、手鷹ヲ以テ神庭ノ雉二合セツルニ、雉却テ其鷹ヲ殺シ、且ツ神憑シテ種々ノ神威ヲ顕セリ、四郎大二驚キ社司ニ請テ幣帛ヲ捧ゲ、神二祈謝シ社司ノ弟藤九郎某ヲ携へ帰リ、事由ヲ頼朝二告シカパ、益其神異ヲ畏レテ、那阿以東久慈以西ノ地、百廿町ヲ割テ神領二充テ奉リ、藤九郎二磯前氏ヲ賜卜……四月ノ例祭ニハ、野々上三十三村ノ諸神、磯前二神幸アリテ競馬ヲ行フ」
この伝承によると、お磯成りの祭事は源頼朝以前から行われていたことになる。しかし、頼朝が鹿島神宮に神領を寄進した事実はあっても、酒列磯前神社に神領を寄進したという史料は見当らないので、酒列磯前神社の権威づけと鹿島神宮への対抗意識をもって言いだされたものと思われる。おそらく、お磯成りの祭事が盛んに行われるようになってから、鹿島神宮の祭頭祭の向うを張って作られた話なのであろう。
したがって、お磯成りの起源は「水府志料」に、
「磯前酒列明神の社あり。毎年四月九日空事あり…此日近村四十八ヶ村より鎮守明神こゝに出社あり。土俗明神礎出と云。何の比より初まりし事を知らず」
とあるように、明らかでないのである。『新編常陸国誌』には「那珂郡三十三村ノ?守」である研神社がお磯成りの出発点で「四月七日ヲ神幸卜云、是日遠近ノ民万余人或八馬ニ騎リ、或八徒歩シテ、神輿二扈従シ、平磯ノ浜二至ル」とみえている。そして、お磯成りを迎える平磯の酒列磯前神社では「其四月ノ祭ニハ本郡三十三村ノ民、各其鎮守ノ神輿ヲ、当社前二舁来テ祭ヲ修厶、此日競馬ノ儀ヲ行フ」と記している。
神輿と御鉾
お磯成りは「浜降り」「お磯降り」「磯出」「ヤンサマチ」などともよばれ、4月7日に静神社を出発した神輿に、道筋の村の鎖守の神輿が供率して、酒列磯前神社に到着するのである。このような祭礼の形態は江戸時代のものであって、それ以前に同じ形のお磯成りが行われてきたとは思われない。お磯成りは、太平洋、日本海側の海岸地帯にみられる神社神事で、とりわけ茨城、千葉両県には集中的に分布しているので、これらの地域の神事と比較して考える必要もある。
現在のところ、酒列磯前神社へのお磯成りを記した、もっとも古く、そして信憑性のあるものは、鴨志田家文書である。この文書は慶長16年(1611)正月15日に、大島村では氏神に取立てるような神がないので、外野村鎮守八幡宮の氏子にしてほしいという要望がだされ、それを認めた証文である。そのなかに、次のような注目すべき記事がみえる。
「右之八幡様、向後氏子二相成度由、当処覚成院ヲ以、度く御願申候処二、此度何も御合点二而、氏子二相成候、其故、年々三度之祭礼、同前二相究メ可レ申候、当四月御祭礼磯崎江御磯成之時、御鉾六本外野方、御鐘四本卜竹鐘弐本、大鳩村方二而御守り可レ申卜相定メ申候」
これによると、4月の外野村鎮守八幡宮の祭礼のとき、磯崎へお磯成りをすることになっている。お磯成りは、八幡宮の祭礼の神事の一つとして行われているのである。それは、静神社の浜降りの神輿に供奉して参加したものではないのである。また、この神事は慶長16年のころは「お磯成り」とよばれており、お磯成りをするのは神輿ではなく「御鉾」であったことが知られる。
この事実は、寛永3年(云)の鴨志田家文書をみれば、さらに明らかとなる。寛永3年(1626)9月20日、外石川村も大島村にならって、外野村鎮守八幡宮の氏子にしてほしいと要望し、手形をさしだしている。それには、
「然者、四月之祭礼御鉢磯成り被レ成候時分、御舞竹ほこ四妹宛、石川も御守り申候由、御絳八牀外野、大嶋ニテ御守り可レ成候御申二付、いか二も其通り年々相究メ可レ申」
とあり、お磯成りするのは神輿ではなく「御鉾」なのである。
疫病よけの祈願神事
外野村鎮守八幅宮の祭礼に「御鉾」がなぜ、磯成りするのであろうか。祇園祭りの山鋒の巡幸にも似た鉾のお磯成りには、疫病よけの祈願がこめられているようにも思われる。というのは、酒列磯前神社へのお磯成りは、海浜での潔斎、神仏出現の海辺聖地への巡幸などという、たんなる浜降りの神事だけではないのである。天安元年(857)10月、大洗磯前と酒列磯前の両神が朝廷から薬師菩薩明神の称号を授けられており、また、『日本書紀』にもみえるように、酒列磯前神社の祭神少彦名命と大洗磯前神社の祭神大己貴命は、古来より人びとや家畜の病気をなおす医薬の神として、信仰されてきたのである。したがって、外野村の鎮守八幡宮の祭礼における「御鉾」のお磯成りには、村人や家畜の病気よけの祈願の性格もふくまれているのである。とにかく、慶長16年4月の外野村八幡宮の祭礼の神事として、鉾のお磯成りが行われたことは確実である。この神事は、慶長以前にも行われていたと思われる。
野々上三十三郷と磯成り
江戸氏は、常陸大掾氏の勢力を那珂川流域の郷村から一掃すると、那珂川河口の湊や平破の地に注目したようである。湊の館山は、もと大掾氏の家臣小泉重幹の居所であったが、応永年間(1394〜1428)に、江戸但馬守通勝の家臣阿彦三郎が館を構えて居住したので、館山と呼ぶようになったといわれる。また、弘治年中(1555〜1558)に、江戸但馬守忠通は、酒列磯前神社の神殿を改造し、天正8年(1580)3月、江戸但馬守重通は大檀那として、神殿の造営をしているのである。こうして、戦国時代にあっても酒列磯前神社は江戸氏の保護をうけて、神殿の造営がなされていたが、当時、平磯の地は鹿島神宮の神領であったから維持経営は苦しかったものと思われる。江戸氏が、酒列磯前神社一帯の経営に成功すると、江戸氏支配下の郷村の農民の間に、鎖守の祭礼の神事としてお磯成りをおこない、村人や家畜の病気よけを祈願する行事が行われたのではないだろうか。
酒列磯前神社の伝承や「新編常陸国誌」によると、お磯成りには「那珂三十三村」の諸神が出社したといわれている。「那珂三十三村」は「野々上三十三村」ともよばれ、静村以東と高野、足崎、横道、村松、三反田をさし、枝川城主江戸播磨守重氏は、野々上三三郷の族頭であったと伝えられている。「江戸氏系図」にも、江戸重氏は枝川播磨守と称し「代々属江戸氏、野々上三十六騎之旅頭也」とあるので、お磯成りをした郷村は江戸氏やその一族の支配地と関係が深いことを示している。
しかし、お磯成りの神事に、静神社の神輿が中心となり、那珂33村の鎮守の神輿がこれに供奉して酒列磯前神社に到着するという整然とした形態をとるようになるのは、江戸時代に入ってからである。また、この神事に村松の競馬などが結びつくのもあとのことである。「水府志料」によると、近世に行われた競馬には「年の豊凶、魚漁の有無」を占う目的があったことが知られるが、お磯成りの神事に馬が参加する本来の目的は、家畜が病気にかからないように酒列磯前の神に祈願することであった。おそらく、近世以前のお磯成りは、それぞれの鎮守の4月の祭礼における、神事の一つとしておこなわれ、「御鉾」を守っての行列が、酒列磯前神社をめざしたものであろう。
ヤンサマチと浜降り
ヤンサマチは、瓜連町の海神社、那珂湊の酒列磯前神社、東海村村松の大神宮の三地点を結ぶ、ほぼ三角形をなす旧那珂郡にあてはまる地域社会の象徴的な祭りである。市域はこの地域の中にすっぽり入っており、いうならば勝田市域の代表的なお祭りとして、古老たちの記憶にはっきりと残っている。昭和4年をもってヤンサマチは中絶したが、当時の思い出は鮮明な印象として語り継がれてもいる。
ヤンサマチは、大きくニ段階にわかれる。神輿渡御で示される浜降りの神事と、競馬をともなった流鏑馬の神事である。両者ともに近世には壮大な祭礼の体裁をとっていた。浜降りの出発点にあたる静神社は、常陸国の二の宮であり、『新編常陸国誌』には「那珂三十三村ノ鎮守タリ」とある。そして、「四月七日ヲ神幸卜云、是日遠近ノ民万余人或八馬二騎リ、或八徒歩シテ、神輿二雇従シ、平磯ノ浜一一至ル」と浜降りを描写している。
浜降りまたは磯降りと称するこの行事の沿源は不明確であるが、寛文7年(1667)以降毎年実施され、元文年間(1736〜1740)のある時期から、4月1日を祭日とし3年に1度になった。静神社から酒列神社までは約28キロ(7里)あり、その間道筋の厶ラでは、神幸のお旅所を設けて神輿を迎え入れる。そして静神社の神輿に供奉して、厶ラの鎮守の神輿が、厶ラの若者たちにかつがれて浜降りしていくのである。浜に近づくにつれ、神輿と供奉する人々の数は増加する。
『新編常陸国誌』には、当時の平磯村の酒列礙前神社の項に「其四月ノ祭ニハ本郡三十三村ノ民、各其鎮守ノ神輿ヲ、当社前ニ昇来テ祭ヲ修厶、此日競馬ノ儀ヲ行フ」と記しており、ムラムラの鎮守の神輿が集まることをのべている。
各厶ラの若者たちが、鉢巻をしめ、樫の六尺棒を組み合わせてかつぐ。六尺捧を打振り、打合わせ、その棒で神輿を支えながら「ヤンサ、コラサ」の掛け声をあげる。この掛け声がヤンサマチという俗称の起こりだといわれている。神輿に供奉する神官は衣冠束帯、剣を帯びる。供先きは一本の槍持、武装した稚子が乗馬しており、神輿の練りはいったん阿字ヶ浦に下りると、波打ち際を酒列神社の麗まで進み、そこから神道を上って境内に到着する。
ところが最初に着く静神社の神輿は、神道を通って、酒列神社の前を素通りし、直接海岸へ降りていく。磯前酒列神社の背後は、太平洋の荒波が打寄せる磯である。磯の一端に護摩壇石と称する奇岩があって、ここに神が漂着したことを啓示するが、神輿はこの前にて祝詞を受ける。
最後に着く神輿は、村松大神宮のものであり、この神輿が境内に到着するや否や、一発の煙火がなり審き、村松から二里八町の浜辺を馬が走り出すのであった。
浜降りは、太平洋、日本海側の海岸部にみられる神社神事のなかでは、盛大なにぎわいをみせることで知られる。とりわけ茨城、千葉両県には集中的に分布している。特に、県北部、那珂川、涸沼川周辺、北浦、15ケ浦周辺で、およそ30社近く行われているという。ヤンサマチはそうした事例のなかでも、競馬をともなうことによって清彩に富む行事として注目されてきた。
ヤンサマチに参加する厶ラの数は「那珂郡三十三ヶ村」と記されているが、その後通称「四十八ヶ村」といわれている。ただ具体的にどの厶ラであったかは、まだ確定されていない。現在まで数えられる村名は次のとおりである。
○ヤンサマチ参加村名=静村、村松村、白方村、部田野村、柳沢村、三反田村、湊村、馬渡村、須和間村、高場村、中根村、勝倉村、津田村、石神村、額田村、酒出村、稲田村、佐和村、後台村、中台村、西連寺村、国井村、福田村、米崎村、杉村、菅谷村、外石川村、戸村、田谷村、青柳村、鴻巣村、木倉村、平磯村、前浜村、照沼村、長砂村、高野村、吉沼村、東大野村、大塚村。(「前渡小学校八十周年記念誌」昭和46年)
以上の46村である。
48村とすると2村が不明である。そこで横道を長砂村に入れ、大塚、青塚、浜田の3村を加えると48カ村になるという説もある。ただ実際は48はなくても、49の前の数に合わせ語呂のよい計算をしているとも考えられる。
出社神社一覧
次にヤンサマチに出社する神社の一覧をしておこう。
静神社、旧静村
釜神社・弁財天、部田野村
四社神社、湊村
鉾香取神社、下高場村
吉田神社(旧八幡宮)、同(西)
住吉神社、石神村
今鹿島神社、稲田村
息栖神社、中台村
伊勢神明社、下河内(西連寺)村
三島神社、米崎村
大神宮、村松村、
稲荷神社、柳沢村、
酒列神社、馬渡村、
静神社、上高場村、
勝倉神社、勝倉村、
鹿島・八幡神社、額田村、
大神宮、佐和村、
静神社、堤村、
鹿島(旧八幡)神社、国井村、
鹿島神社、杉村、
豊受大神宮、新宮素篤神社、住吉神社
鹿島神社・八龍神、菅谷村(安政4年より出社)
吉田神社、外石川村、大島村、外野村
国神神社、戸村
諏訪神社、木倉村、平磯村、前浜村、照沼村、長砂村、高野村、横道村
吉田神社、吉沼村
春日神社、田谷村
稲荷神社、東大野村
鹿島・香取神社、青柳村
鷲神社、鴻巣村
このうち市域に該当する厶ラは13村を数えている。このうち村松大神宮の氏子圏に入っている長砂、高野、横道の3村は、鎮守の神輿を出さず、競馬のさいに馬を供出している。この点は後述する。
『前渡村郷土誌』によると、ヤンサマチの祭日は、その後3月7日になり、明治10年(1877)ごろから、次第に大がかりな形のものは少なくなり、居祭りの状態、つまり浜降りがない状態となったという。明治40年(1907)には、県知事森正隆がヤンサマチの古式を写真に撮って行幸する天皇に供覧するため、臨時に祭りを催したという。そのおりの神輿の浜降りは、部田野の鎮守だけであったという。
ヤンサマチと競馬
浜降りの後に行われた競馬は、ヤンサマチの第二段階にあたる。往々にして、この競馬がヤンサマチそのものだと思われがちであった。たとえば『水戸領地理誌』には、
「毎年4月9日、祭事あり、近村民家の馬六頭を出し、村松村より海辺2里8丁の渚を馳せ、磯前神社の社山に乗付け、鉾を投げ迅速の勝負を争ひ、年の豊凶、魚漁の有無を卜す、土人其場を乗付場と呼ぶ、馬6疋は長砂村3疋、高野村2疋、須和間1疋なり、此日近村48ヶ村より鎮守明神の出社あり、土俗、明神磯出と云ふ。何の頃より初めしことを知らず」
と記されている。競馬の目的が「年の豊凶、魚漁の有無」を占うことにあることが明記されている。競馬が古くからの神事であることの性格がこれによっても知れるわけだが、このヤンサマチは実に盛大に規模も大きく行われていたのである。
江戸時代に盛大に行われた競馬の状況を復原してみると、ほぼ次のようになるだろう。
当日、藩から掛り役の奉行が出張してきて、磯崎の網入台に仮館を設けて、祭事全体を監視したという。早朝、静神社の神輿をはじめ、各厶ラの鎮守の神輿が浜降りを開始し、やがてそれら神輿が押し合いへし合い、阿字ヶ浦の波打ち目がけて進んでくる。そして神輿が休憩所つまりお旅所に到着する。すると奉行出張の仮館から蜂火が上がる。これを合図に、村松海岸ーノ下橋下シツテ川という所で、待ち構えていた馬たちの口をうがいさせてから磯前の社山を目がけてスター卜させるのである。
馬は6匹、須和間、長砂、高野の各厶ラから出るのだが、それぞれ馬乗の扮装が異なっていた。須和間の場合は「黄黒ノ藤模様二州浜形大?付紅白縁ノ無袖羽織井二紅ノ鉢巻」、高野の場合は「白色二立浪ノ形、高ノ字付」、長砂の場合は「無紋唐染様ナル一重羽織」、いずれも元禄9年(1696)以降のとりきめだとしている。
さて須和間の騎手は、樫の木で作った六尺の丸棒を柄とした鉾を持っており、長砂、高野の騎手は、これと類似した舞で、杉ノ木で作った五尺ほどの丸棒を柄としている。それぞれが鉾を左手に持ち、右手で手綱をしっかとにぎり、勝負を競ったのである。観客の熱狂ぶりは、ものすごいものだったそうで、それぞれのひいきがあるから、勝負に熱中して暴れたりする者があり、要所要所で警備にあたったという。
一着から三着までの騎手は、それぞれ「ーの鈴、二の舞、三の鉾」と名のらせて、その鉾を奉行のいる所に向けて投げさせる。役人はその鉾をとり上げて、村名と姓名を声高らかに呼び上げる。これが大いなる誇りだったのである。
勝負がつくと、騎手たちは、投げた鉾を受取って、二人の口取りつきに警護されて酒列磯前神社に参詣し、帰途についた。ーの鉾は豊年満作、二の絆は浜大漁、三の鉾は家内安全、子孫長久を祈ったものといわれている。
決勝点にあたる乗付場は、現在の阿字ヶ浦海水浴場へ下っていく坂道の下のあたりであるという。折から春の大潮の時期で、干潮時の浜は二里八町、村松下を発走した馬は、赤、白、黄の鉢巻をした騎手を乗せ疾走する。波打ち際を水しぶきをけたてて走る馬、海岸ぎっしり詰まった大観衆、水戸射爆撃場になってしまった市域の海岸部での往時の面影は、今はすっかり失なわれてしまっている。
水戸光圀がこの競馬を上覧したという故事は、一つの権威づけとなっているが、たしかに歴代藩主が、この競馬に興味をもって接したことを語る文献は多く残されている。たとえば、須和間の住吉神社の旧記には「元禄九年義公村松大神宮の競馬を観る。越えて明年命じて其祭典を再興せしめ頗る奨励する所あり。爾来各村競うて人を走らせ馬匹を精選し以て神馬に供ふ」とあって、藩権力による水戸藩の宗教統制の実施された段階以前にも、神事としての競馬のあったことはうかがえるのであるが、それが藩権力の介入によっていっそう大掛かりな形にされたということが推察できるだろう。
酒列磯前神社の古社伝によると、かつて頼朝が、ヤンサマチのあるのを知り、家臣茂木四郎某をつかわして、神馬30頭を献納したといい、そのさい柴田中務なる供奉が鷹をして神社境内の雉にけしかけたところ、逆に鷹は殺され、さらに柴田中務に神霊が憑依したという。頼朝はその神異に徳き、酒列神社に神領120町を献じたという伝説がある。頼朝うんぬんはともかく、古くから神馬による神事のあったことを知る。ただこれは酒列神社に限られた神事であったろう。
さきにもあげた須和間の「住吉神社社記」のうち「競馬覚」によると、元禄9年(1696)以前には馬が村松社中より出ているが、磯前に疾走することがなかった点を明らかにしている文書もある。
「元禄十年丁丑年ヨリ村松ヨリ五六町サキノ富士山ノ下ヨリ競馬出シ申御上意有レ之」
としており、競馬のコースがその後浜辺を走るように変更されていたことを述べている。つまり、光圀の上覧の元禄9年以後、ヤンサマチ全体に何らかの規制のあったことがうかがえるのである。それは①コースの設定②乗馬装束の制服化③須和間、長砂、高野の村印の設定等々が「御上意有之」という形でおし出されていることからも明らかである。光圀再興の以前は、たぶん酒列磯前神社、村松大神宮ではそれぞれ別に神事としての競馬が行われていたようである。
村松大神宮の方の競馬はとりわけさかんだったのだが、一方浜降り神事は、酒列磯前神社を中心にしてあるので、この両者をだき合わせる形で、村松と磯崎の間に競馬を実施させるようにしたのではないかと推察される。
「五公の尊命ありて浪打際を走らす、其以前は村松の橋際に繩張し馬の首を揃へ、役人其師を切捨るを合図として駐出せしとぞ、山の間道を走り、海辺によりて出るもあり、己がさまざまに棄付迄遅速を争ひしが、正路に非ざるをもって、当時の乗出の地に定給ふ」
という古老の説があり一つの裏付けとなっている。市域の厶ラで競馬のさいに重要な役割をになったのは、神馬を出す長砂、高野だった。ヤンサマチが行われる時に馬を出すかどうかを決定するのは、その年の2月1日と定まっていた。決定する会合は、村松大神宮の社殿で行われるのだが、これを村松カイギ(会議)と称した。
あらかじめ2月1日の会議をもちたいと村松大神宮の方から触れがくる。まず照沼の区長がそれを受け、照沼の若い衆のうちから2人の使いが選ばれて、長砂ー足崎ー高野の順で通達されていく。出席する旨の返事が今度は逆の方向で順番にいい継がれて、大神宮に届く。
村松会議
各厶ラでは村松会議に次のような構成で10人の代表を送った。大老(50歳以上)2人中老(45歳以上)2人、小中老(35歳以上)2人、世話人2人、若い衆2人。若い衆は会議の警固役として、六尺棒を持っていく。代表たちは、村提灯を先頭に会議に出発する。議題はヤンサマチに馬を出社させるか否かということだが、その決定までにずい分時間がかかり夜半から翌朝になったという。若い衆は連絡係をも兼ねているので、村松の宿屋で決定する時間まで待機する必要があった。この会議の状況は、使いの若い衆が、ムラムラへたえず連絡していたという。厶ラでは、若い衆たちが世話人の家を宿としてそこに詰めている。やるかやらないかみんな興奮しながら待っていたものだと古老は語っていた。
さていよいよ出社が決定すると、2日早朝代表たちが帰村する。世話人の宿で早速慰労会を開く。このときの費用はサシワリで、各戸酒1升と50銭(昭和初期)だったという。出社の決定はその後ただちに馬組に通知した。馬組というのは、騎手となる家で、江戸時代には固定していたらしいが、明治以降は馬づかいの上手な人との定評のある家が選ばれていた。馬組の家では、厶ラなかで適当な馬を選び出さねばならない。長砂だと3頭の馬はどうしても確保しなければならないわけである。江戸時代には、馬組には、秣料として永代除地(田1反6畝、山林4町歩)が与えられていたという。だからここからの費用で、勝馬を養っておかねばならなかったのである。
長砂(横道)、高野では、2月15日に出社する騎手が正式に決められる。選ばれた若い衆たちは、その日から宿に泊りこんで、もっぱら馬の調教にはげむのである。毎日馬の爪を切り、鎮守へ連れていって、境内の池で口をすすいでやるのが日課であった。なお先に挙げた出社会議の構成員は、東海村の須和間、照沼、真崎、押野辺、川根と、市域の長砂、足崎、高野の8つの厶ラで、各厶ラごとに10人の代表だから計80人の大会議なのである。このうち神馬を出すのは、長砂、高野と須和間の3つの厶ラに限られている。これがいかなる理由かは判然としていない。足崎は馬は出さないが、村松大神宮の神輿の行列にはもちろん参加している。つまり村松大神宮の氏子圏の厶ラといえるわけであるが、またそれぞれ鎮守を持っているのだから、ある時点で、神威の強い村松大神宮に鎮守の神路が統合されたことも推察される。いずれ今後の問題としておきたい。
以上