「暗闇」「ぶつかる」 穴を掘る
作: 湊
ゴツン、と何かにぶつかった。
鈍い感覚だった。力任せに掘り進めたらいいような、小さなものではない気がする。
と、長年の勘から推測した。
察するに、恐らく自分の身体の倍ほどはある岩だ。
腕の感覚は既になく、手を止めた時、爪の先から肩までの血が散っていくような感覚がした。
土のにおいがする。しかも、自分の身体にも土やほこりのにおいが染みついている。目の中にもずっと何かが残っていて、それを確認したわけではなかったが、身体じゅうがそれにまみれているに違いなかった。
その子は自分が地中の一部になってしまったような気さえしていた。
そこは暗闇だったので、そのような錯覚を起こすのも不思議なことではなかった。
その子はまだ若かったが、地下から出て働いたことはなかった。
それにろくな教育だって受けたことはないので、字を読むことも出来ない。
まして暗がりで働くには、そんな必要もないため、読みたいと思ったこともなかった。
どの大人も、そこで働くのが一番だと言った。
そのため、身についたことと言えば、ただ地面を掘ることだけであった。
今その子がいる場所は、その子の親から受け継いだものだった。
その子の前はそのお父さんとお母さんが、その前はそのおじいさんとおばあさんが、その前はそのひい爺さんとひい婆さんが、そこらを掘って暮らしを立ててきた。
だがそんな歴史を考えたことはない。
その子は自分が生きることに一生懸命だったからだ。
そして、その仕事をすることを当たり前のように思い、生まれてから一度もおかしいと思ったことはなかった。
もしその子がもっと長い時間穴の外に出て、空や、川や、海や、そこに暮らす生き物を見て、他の暮らし方を知っていたなら、他の道を考えることもあったかもしれない。
でもその子は外の世界を見たことがなかったので、今の場所がその子の全てだった。
その子にも、得意なことはあった。
自分を認めることは得意ではなかったが、得意なことがあると思えるのは、まだ救いであった。
それは、穴掘りの技術だった。
ここら一帯では有名なもので、他の子たちが6時間かけるような土地でも、その子にかかればその半分で掘り進めることが出来た。
シャベルを体の一部として扱うことが一番の秘訣だ、とその子は考えていた。
更に得意だったのは、においを辿ることだった。
その子は誰よりも鼻が利いたので、地中にかすかに残ったにおいを頼りに掘り進めることも出来た。
その子は季節を考えたこともなかったが、おそらく夏の、ある暑い日、自分よりも小さな子供が穴の中で迷子になってしまったことがあった。
今こそ自分の出番であると思い、その子は一心不乱に朝から晩まで寝ずに穴を掘った。
普段は4時間働けば4時間寝ないといけなかったのだが、その時ばかりは寝る間を惜しんで探し続けた結果、小さな子供が空腹で亡くなっているのを発見した。
珍しい事ではなかったため、周りで騒ぎ立てることはなかったが、その子だけはひどく心を痛めていた。
岩にぶつかって土から手を離したとき、その子は眠気で目をこすった。
目をこすったのも、本当にこれが手なのか疑っていたため、それが手であったのは定かではなかったが。
さすがに4時間も作業をしていたので、体力が限界だったのだ。
目と呼べるものではもうなかったのかもしれないが、その子は目をつぶった。
目を閉じても広がるのは闇だったが、少しばかり頭に絵を浮かべることは出来た。
お宝を見つけた自分や、あの子に会う自分を想像すると、知らぬ間に口元の筋肉が上方向に収縮していることに気が付いた。
その子はこの瞬間の自分の身体の変化を感じ取ることが好きだった。
また、こうするとお腹の中がふわっと温かくなり、ひと時の間現実と寒さを忘れることが出来るのも。
そのため、目をつむるときには必ず空想することにしていた。
いつも空想を広げていくと、思い浮かぶのは一度会ったきりの、あの子だった。
暗闇と、恥ずかしさの所為で顔をしかと見たわけではなかったが、彼女の香りだけは鼻で記憶していた。
このとき考えたのは、自分がその子と手をつないでいるところだった。
手の存在を疑っていたその子だったが、空想の中では自分の手とあの子の手が触れ合う感覚が手を包み込むのを感じることが出来た。
同時に、なんとも甘く花のような香りを鼻で感じた。
そうしていると、いつの間にか、その子の手に触れるのはあの子ではなく、地中で亡くなった小さな子供であると思わずにはいられなくなった。
幸せで穏やかな感情の上に濁流が襲い掛かったような気分だった。
こうなってしまうと、あの子のことをいくら考えても、この容赦なく否応にも思い出さずにいられない現実が、その子の思考を埋めつくすのは、いつものことだった。
しかし、今回ばかりは自分の力で押しのけられるのではないか、とその子は考え、あの子の顔、身体、香り、声をできるだけ鮮明に思い浮かべようとした。
もしその子が視覚や聴覚を最大限に使うことが出来たなら、もっとうまく想像することが出来たのであろう。
その瞬間、頭の上で大砲か、雷か、と思う程の大きな音が鳴りひびいた。
その子が聞こえるくらいだったから、とても大きな音だったに違いない。
土に入った小さな割れ目から砂が一粒、二粒、ぱらぱらと落ちてきて、みしみしと植物の根がちぎれて、目の前の岩がぐらぐらと動き出した。
前に、後ろに、右に、左に、その岩が動いた後、スポッとその岩が天に吸い込まれてしまった。
そこに出来た天井の楕円形の穴から差す眩い光が鼻の少し先の地面を照らし、地面に反射した光がその子の目を刺した。
はっきりとそれが見えたわけではないが、明るいのか、暗いのか、それくらいは判別することが出来たのだ。
そしてその明るさよりも、今までいた暗くて狭い世界の外に、世界が広がっていることに驚いた。
その明るさが、あの子のことを考えているときの感情と同じくらい尊いものに思えたのは、その子が新しい世界の存在を知り、可能性が目の前に広がったからであろう。
空はまともに見たことはなかったが、まるで雲の隙間から太陽の光が一筋漏れているようにも見えた。
神様が手を差し伸べていて、それに応えれば、この暗くて冷たい場所から解放される気がした。
いや、もはや、その光の先にいるのが、神でも、あの子でも、誰でも良いと思ったのだ。
その子はゆっくりと、吸い込まれるように光の中へ入っていった。
岩を押しのけてできた穴から顔を出すと、柔らかくて暖かい空気がどこまでも広がっていて、温められて立ち昇る木々や花の香り、土に染みついた太陽の香り、そこらに漂う水の香りがした。
辺り一面、暗がりはなく、そこにあるのは光だけだった。
その子には、自分の生活がこの瞬間から変わるのだと、何となく理解が出来た。
「お母さん!石を退けたらモグラが出てきた!」
ー終ー
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