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シャボン玉

作: みそ

シャボン玉飛んだ。屋根まで飛んだ。屋根まで飛んで、ビルまで飛んで、雲まで飛んで、成層圏を突き抜けて、宇宙に飛び出して、私を見下ろして、あっちを向いた。

 宇宙は真空だ。シャボン玉ふくらんだ。どんどんふくらんで、表面が波打って、太陽の光浴びて、きらきらまるまると。風は吹かない。シャボン玉はふわふわと上昇を続け、ぐんぐんと膨張を繰り返した。とうとうどっちが上かもわからなくなったころ、シャボン玉は自分が月を飲み込んでいることに気づいた。

 ゆらゆら波打つ表面の、きらきら輝く膜の中で、月はじっと動かないでいた。満月ではないけど、ふくよかで明るい月。シャボン玉はいつの間にか自分の内側に現れた丸い光に目を向ける。その丸が発する光を見ている一方で、その裏に潜む闇も見ている。光を月の顔とするのなら、その顔は太陽に向けられていた。シャボン玉も倣って太陽を見る。透明に光るシャボン玉の膜は、私からはどこが顔なのかわからないし、どこが目で何を見ているのかも知れない。それでもシャボン玉は太陽を見ていたに違いない。月もシャボン玉も太陽を見ている。私はそれを見ている。

 シャボン玉と月がじっと太陽を見つめているその間にも、膨張は続いている。私はそれがまるで細胞のようだとも思った。でも、もしこれ細胞なら、月がシャボン玉の核ということになってしまうじゃないか。もしこれが細胞なら、膨張のあとに分裂と増殖が待っているじゃないか。そんなの違う、そんなのイヤだ、私の可愛いシャボン玉はそんなことやりっこないもの。だからシャボン玉はただのシャボン玉で、絶対に細胞なんかじゃなくて、これからも月と仲良く太陽を見つめながら膨らんでいくだけなの。

 私も太陽に目を向けた。眩しかった。遠く西の空に沈んでゆく太陽は、まるで地球の重力に屈しているようだ。遠くで飛行機雲が細く伸びている。左から右へと引かれる茜雲の線は、あるはずのない境界を空に刻んだ。このワタクシ飛行機雲より向こうが夕方ですヨ。このワタクシ飛行機雲よりそちら側は、残念もう夕方ではないのですヨ。飛行機雲はどんどんと右に伸びる。でも左の端は徐々にふやけて、薄く広がって、とうとう消え始めていった。飛行機雲は右に伸びているのではなく、右に逃げているのかもしれない。飛行機雲はきっと立ち止まったら、左の端からまたたく間に消えてなくなってしまうのだろう。このワタクシ飛行機雲よりそちら側の者が、このワタクシ飛行機雲より向こう側に行くことは許しませんヨ。飛行機雲は身を守ろうと境界線を引く。でも可哀想に、境界線は自身が隔てた場のどちらにも属せないし、どちらにも属してしまうのに。右へ右へと逃げている飛行機雲はついに太陽を横切り、もっともっと右へ右へと逃げていった。一筋の飛行機雲の他には、雲一つない西の夕空だった。飛行機雲を追うものは何なのか、少なくともその姿は見えない。でも必死に逃げる飛行機雲は、もう私の目には殆ど見えないくらい遠くにいる。私はもう一度太陽を見つめた。太陽の丸みが視認できるほどに光は穏やかになっていた。太陽の丸みが、下から欠けていってるのもはっきりと見えた。太陽が地面との境界線を渡っている。太陽が地球に吸い込まれている。間もなく夕方も終わるのだろう。となると次にやってくるのは……。太陽に目を奪われ続けていた私の視界に、それは突然現れた。七色に波打つ艶やかな光、私の可愛いシャボン玉。東の月を飲み込んだシャボン玉は、いよいよ空を全て覆い尽くしてしまった。太陽がほとんどいなくなった空は西の赤さが徐々に失われ、東から来る暗さに包まれてしまっている。なのにその暗さの中に、シャボン玉の光がある。シャボン玉の薄い膜はとうとう成層圏を突き抜け、大地に到達した。ものすごい速さで地球を飲み込もうとしている。遠くからビルを、人を、街を飲み込みながら私の方へと向かって来るこの膜、私の可愛いシャボン玉。とうとう時は来た。太陽は完全に沈み、今やこの夜を支配するのは煌々と耀く月のみ。そしてそんな空を、夜を飲み込んでなお拡大を続けるシャボン玉が、とうとう私の目の前までやって来た。視界がふわりと光った。

 シャボン玉の膜は私など意に介さないかのようにぐんぐんと迫ってきた。そうか、そうなのね。私はさみしかったけれど、膜に向かって人差し指を突き立てた。だってこの子は私が産んだんだもの。この子が産まれて、笑って、元気いっぱい空に浮かんで、不思議がって、たくさん吸収して、そして大きくなっていく姿を私は見てきた。見ていない時間もあったけれど、それでも今のこの子の姿を見れば全部がはっきりと分かる。シャボン玉には善悪なんてない、ただこれがこの子で、この子はこう生きていた。私の可愛いシャボン玉、今はもうこんなに大きいけれど、もっともっと大きくなれる気でいるけれど、始まりは私の小さな一息だったのよ。どうかそれだけは忘れないでね。突き出された私の指にぐんぐん迫るシャボン玉。そしてとうとう時は来た。膨張に膨張を重ね、薄く軽く弱くなった膜は、私の指に触れた瞬間にパチンと壊れた。シャボン玉に包まれた世界から、一瞬でシャボン玉の痕跡が消えてしまった。月はただ白く光っている。西の空にはようやく金星も現れた。私の足元には、シャボン液がこぼれてシミになっている。


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