はじめましてから
昨日出会ったばかりなのに、もう僕の頭は君で満たされている。昨夜のことを思い出すと、頭がうまく働かない。君の姿は眼球を震わせ、君の声は頬を染める。たった数刻の記憶が、僕のこれまでの人生全てを塗りつぶしてしまった。今、僕の脳みそは君のための容れ物に過ぎない。
僕は君のことを考えている。今、こうして部屋に一人でいる間ずっとそうしている。それ以外に何ができる?やるべきことはあるのだろう、きっとあったのだろう。でももう不可能だ。かつて僕が至っていた全ての思考の前に、今は君が立ちはだかっている。僕は何も忘れてはいないが、君以外の何も思い出すことができない。きっとそれは、もう君以外を思い出す必要がないからだろう。僕の脳みそは初めから君を記録するために存在していたのだ。だからもう当初の目的は達成されたのだ。
でも、だとしたら僕は次に何をすればいいのだろう。とりあえず今は昨夜の記憶を何度も何度も反芻しているけど、果たしてこれが正解なのだろうか。脳裏に焼き付いた君はどこか遠くを見つめている。頬杖をついて、どこか退屈そうな顔をしている。どうしてだろう。君の正面に座っている男は手や首を慌ただしく動かしながらキョドキョドと君に話をしている。君は遠くを見つめたまま、たまに気だるい返事をしていた。後ろ姿しか見えなかったけど、きっとあの男は悪いやつだ。僕の思考を遮る君はいつも不完全な姿をしている。あの男の背中が、後頭部が、たまにチラつく横顔が君を少し隠しているから。
「僕はまだ本当の君を知らないのかもしれない。」
君で満たされていたはずの頭に、小さな余白が生まれた気がした。ならばこの隙間を埋めるのも、当然君であるべきだ。よし、ではまた君に会いに行こう。君に会えば、今度こそ僕の目的は果たされる。僕は君で満たされて、君は僕に溢れて、僕は君に溺れる。ただそれだけのこと。何も始まらないし何も終わりやしない。
君に会ったらまずは何をしようか。あいさつ?それって声を掛けるってこと?それとも遠くから見るだけのほうがいいかな。昨夜みたいに。たった数秒だったけど、僕の運命に気づいた奇跡のような夜。僕は遠くから君を見つめて、君は遠くを見つめる。さすがに今日はあの男もいないだろう。だから今度こそ君の完全な姿を記録することができるはず。遠くから見つめて、もしかすると少しだけ近づけるかも。少しずつ、少しずつ近づいたら、君もいつかは僕を見てくれるだろうか。それとも相変わらずどこか遠くを見つめているのかな。
ねえ、君はどこを見ているんだい?君が見つめるものって一体何なのだろう。僕は君を見つめることしかできないから、その答えを知るすべがない。ただ君が見つめているものも君の一部だとすれば、僕の余白を埋めるのはそれなのかもしれない。ああ、気になる。気になって仕方がない。僕は今、君が見つめているもののことばかりを考えている。僕は君のことしか考えられないはずなのに、いつの間にか君の見つめているもののこともずっと考えている。ではやはり、君の見つめているものは君の一部ということで間違いなさそうだ。
君はずっと遠くを見つめている。ぼんやりと、でもはっきりと。一生懸命ではなく、でも眼を光らせて。そんなに見ていたいものって、見当もつかない。僕が見つめていたいものは君だけだから、君以外に見るべき対象なんてないから。
君もそうなの?君も、それ以外に見るべき対象なんてないのかな。君で言うそれが、僕で言う君。君は君の「君」を見つめているのかな。だとしたら、その「君」もまた君の中に溢れて洪水を起こしているのだろうか。君は溺れて、どんどんと暗闇の中に沈み、そこに射す唯一の光の筋こそが見つめる先の「君」なのか。ああ、そうなんだね、きっとそうに違いない。君も僕と同じなんだね。僕達は同じだったんだね。僕が見ていた光は君ではなく、君の目に反射した「あの人」のものだったんだね。ありがとう、答えがわかったよ。僕は君の容れ物ではない。姿も形も、声も名前も知らないけれど、僕は今あの人のことで頭がいっぱいだ。君に会いに行くのはもうやめるよ。そして君のことを考えるのも終わりだ。会ったこともないのに、早くもあの人は僕の全てを塗り替えてしまった。ああ、あなたはどんな御方ですか。瞳の反射を介した不完全な姿しか拝めておりませんので、今すぐに会いに行きますね。どうか待っていてください。どうぞごゆっくり、頬杖をつきながら、ぼんやりと遠くを眺めながら、僕を待っていてください。すぐに、今すぐに参ります。まだ行かないで、そのままいてください。でも、先ほどからあなたは一体何を眺めているのですか?
作: みそ
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