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幸福論


作:沫雪


「人の幸せって、何で構成されてるんだろうね」

ぽつり、と唇からこぼれ落ちた疑問。真夏の入道雲とセミの合唱に混じったその言葉は、2人しか居ない狭いアパートのワンルームの空気を揺らして溶けていった。

「やけに哲学的な話題だね」

そうだなあ、と少し考える素振りを見せる彼を横目に私はテーブルに並ぶアイスコーヒーに手を伸ばす。

カラン

溶けかけの氷が音を立てて、結露によってグラスの周りに付着した水がじとりと指先を濡らした。

「脳内物質のセロトニンが、とかそんな話じゃなくて?」

「うん、もっと抽象的で日常的な話」

「ごはんが美味しいとか、近所の野良猫が珍しくおなかを撫でさせてくれたとか、そういう話?」

「うん、きみと一緒に真夜中に食べたアイスの味とか、黒い服なのに撫でまわして二人とも毛まみれになって帰ってきたとか、そういう話」

「ねぇ、きみにとっての幸せは?」

その問いに彼は笑って言った。


「僕の周りの人が幸せでいること」

カラン

先ほどよりも小さくなった氷がグラスの中で溶けてぶつかる。

「きみならそう言うと思った」

でもね、

コロン

きみがそう思っている間は

カラン

私は幸せになれそうにないや。



何の変哲もない、ある夏の日のこと。

抜けるような青空の下、六畳半のワンルームで聞いた、きみと私の幸福論。

「やっぱり、幸せにはなれなかったね。きみも、私も」

カラン

涼やかな音を鳴らすグラスはひとつだけ。

ふわりと香るは線香の煙。
立てかけられた、私の写真。

「だってきみ、自分の幸せを願わないんだもの」

かけられるはずもない体重を彼にかけながらひとり呟く。透けている足先には、気づかないふり。

コロン

溶けて消えた、グラスの氷。

ふわりと消えた、蜃気楼と私。

周りの幸せを願う男と、男の幸せを願う女の、ある夏の日の話。

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