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ランチのパスタセットが選べない症候群

最近外食が怖い。
特にランチのパスタセットが。



産後から、ホルモンの影響もあるのかお金に対する不安が一時的にものすごく強くなった時がある。

独身時代から好き放題やってろくに貯金もなかったくせに、引越し結婚出産引越しマイホームマイカーみたいな大イベントがおおよそ2年の間に全て詰め込まれたので、私は人生で初めて財布の紐を緩めるどころか、紐を無くし、財布の中身がダダ漏れ状態のまま放心していた。

あまりにもお金を使うことが怖くなったので、外食や、自分の化粧品やら服やら、日常生活にプラスアルファされるものにお金を払うのにかなり躊躇するようになった。


そこから数年経って、心身の回復と共に健全な金銭感覚は戻ってきたように思えたのだけれど、外食=浪費・悪という公式に沿って生きてしまったせいで外食の神様に見放されてしまったのだ。



自分で選んだ店は100%の確率でハズれる。
この1年でそれを確信した。
店のレベルを上げたり、口コミを見ても全然ダメだ。



決して綺麗好きではない自分がギリ許せないレベルで掃除が行き届いていない
店内の雰囲気は良いのにBGMの選曲が雑すぎる(もはやBGMはなくてもいいのに)
値段と料理の質が見合っていない(昨今の物価高を差し引いたとしても)
メニューを開いた時に消去法で選ばなければならないラインナップ
料理がどれだけ美味しかったとしてもギリしんどい店員さんの振る舞い
料理が出てきた時にじわじわ広がる自分とテーブル向こうの大切な人たちの取り繕った笑顔

そもそも定休日であったり。(単なる下調べ不足)


そもそも昔に比べて良くも悪くも生活の運営のために自炊の腕を上げざるを得ない状況であったため、ランチのお気軽なパスタセットに対して『よし!私カルボナーラにする⭐︎』と明るく注文して純粋にお腹を減らしてわくわくしていた自分から遠い星に来てしまった私は、どうしても家庭以上の味や珍しさを求めてしまう舌になった。
カット野菜にドレッシングがかけられただけのサラダに、無駄に大きくて白い皿で誤魔化された最低限の具材のパスタに泣けてきてしまう。
こんなパスタなら家で材料費170円で作れたのにと思う。テナント料やら人件費などは知らんが、誰も悲しむことのないパスタをどこにも出かけずに作れたのにと思ってしまう。
お愛想にセットになっているパサパサのフランスパンの切れ端を食べながら、この必死に捻出したランチ時間に私は何を食べているのだろうと思う。


私は本当にパスタが大好きな女子大生だった。
みんなで仲良く親の作ったお弁当箱を広げていた時代から、友達同士で好きな店に行ってバイトで稼いだ小遣いで洒落たカフェのパスタランチを食べることがそもそも至上の幸せだった。
洒落たカフェはとにかくパスタランチを私たちに提供した。

パスタは私の自立した外食人生の入り口でもあった。


だからこそパスタに失望するランチタイムこそ、ある意味成熟の証かもしれない。
カルボナーラがなぜクリーミーでトロトロでチーズの香りがするのか想像もせず、
鮭やしらすやたらこや野菜達の具材がなぜこんなに一体感のある味付けになっているか知ろうともせず、
夏に食べる冷たいパスタやきのこたっぷりのパスタがなぜ同じ食感でないのか考えようともせず
ただ誰かが作った温かいご飯が純粋に美味しいものだと信じて疑わなかったころ、私は外食世界でどこにいても大喜びしていた。


そこからだいぶ成長し、大喜びしてられない現実の生活に押し流されながら貴重な休みを使って、普段中々会えない人や、忙しくてゆっくりできない家族と過ごすための外食がハズれるのはトラウマレベルである。



定期的に外食の習慣があり、このへんの勘が冴えているときはあまりハズレはなかった。

ハズレていたとしてもそれをチャラにする体力や、その日中に挽回できる時間や楽しみが他にもたくさんあったのかもしれない。


私は今一度、パスタセットをありがたく注文できる心と体と店の審美感を磨きたいのだ。


家で作った好きな具材だいぶ多めのパスタも良いが、やっぱり外で食べるパスタは最高だねと笑い合いながら本来ならマナー違反という噂のスプーンとフォークを同時に踊らせたい。


そのためには、外食を愛する必要がある。
自分にたくさん外食をさせる愛を持たなければいけない。
誰かと家の外で自分のお金を払って食べるご飯の喜びを感じたい。

喜びに満ちたパスタセットと私はまた巡り会いたい。

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