team.glovetoss

Twitterで1991年シーズンのプロ野球の出来事を毎日ご紹介する『職業野球新聞1991』を運営しています(開始時点では1990年でした)。 noteではこれらを加筆修正したものを毎日お伝えしていきます。

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最近の記事

1990年11月24日のプロ野球(職業野球新聞)

→職業野球新聞←色々と見るべきポイントがある1990年のドラフト会議ですが、ここでは小島弘務投手の「高卒扱い社会人プロ入り規定」について少々解説をしようと思います。 小島投手は平安高校(現、龍谷大学附属平安高校)は高校卒業後に駒沢大学に進学しますが、野球部内の雰囲気・先輩からの説教を忌避して1年の夏で大学を中退します。 アルバイト生活を経て社会人野球住友金属に入社し、プレーが評価されて1989年に西武がドラフト外で獲得を決めます。 ところが、小島投手は大学中退者ではある

    • 1990年11月22日のプロ野球2(職業野球新聞)

      →職業野球新聞←高橋慶彦選手は走攻守三拍子揃った広島を代表するスター選手で、1974年にドラフト3位で広島に入団しました。 1977年に本格的に一軍に帯同。1978年には「一番遊撃」として早くも定着し、このシーズンから3年連続で三割、三塁打リーグトップをマーク。 1979年には33試合連続安打の日本記録(当時)を樹立し、リーグ優勝・日本一に貢献しました。また、同年からは2年連続で盗塁王に輝き、押しも押されもせぬ一番打者としての地位を確立。1983年からは本塁打数も大幅に増

      • 1990年11月22日のプロ野球1(職業野球新聞)

        →職業野球新聞←阿井英二郎投手は1983年にドラフト3位でヤクルト入団。 肩の力が強く、速球に期待されての入団で、投手として芽が出なかった1985年春先には捕手へのコンバートを打診された程でした。 打診を断った1985年のシーズン早々4月に救援登板で2回1失点と一軍デビューを果たすと、1週間後には先発登板。初勝利は8月までお預けとなりましたが、最終的に44登板3勝を挙げて一軍戦力としてまずまずの数字を残しました。 翌1986年には43登板9勝、1987年には36登板5勝

        • 1990年11月16日のプロ野球(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←タイラー・リー・バンバークレオ選手は、西武に入団した1987年シーズンこそ外国人枠の制限もあって一軍での実働がありませんでしたが、1988年シーズンは打って変わって長打力を発揮。OPS1.024と「歩かせた方がマシ」状態の五番打者として、直球を軽々とスタンドインさせるパワーで38本塁打をマークし、チームの日本一に大いに貢献しました。 ところが、1989年からは弱点が変化球と見た他球団の徹底した変化球攻めに苦しんだばかりか、新たに加入したオレステス・デストラー

          1990年11月15日のプロ野球(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←ルーキーイヤーだった1987年4月に一軍デビューを果たし、5月には完投勝利。 このシーズンは30登板8先発3勝を挙げ、その後の飛躍に期待が集まりました。 故障で以降は一軍登板はなく、本編でもあるようにトレードで1991年からはロッテに移籍することに。ロッテは1993年に退団。 米マイナーでプレー後に1995年に日本ハムに入団しますがそこでも登板なく1996年に退団し、今度は台湾球界に渡ります。 #npb #ダイエー #ロッテ #日本ハム #職業野球新聞

          1990年11月15日のプロ野球(職業野球新聞)

          1990年11月13日のプロ野球2(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←穴吹義雄選手はアマチュア時代から有名な有望株で、各球団による争奪戦(当時はドラフト制度がなく、自由競争による獲得合戦がしばしば繰り広げられた)の末にダイエーの前身である南海に1955年オフに入団しました(※)。 ルーキーイヤーである1956年から6年連続でレギュラー格としてプレーし、1962年からは次第に試合数を減らしていったものの、南海一筋に実働13年で引退。 引退後は指導者としての評価が高く、コーチ・二軍監督・一軍監督を経て、この1990年シーズンオフ

          1990年11月13日のプロ野球2(職業野球新聞)

          1990年11月13日のプロ野球1(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←1975年ドラフト4位で大洋に入団しましたが、当時の厚い内野層に阻まれ、打てる内野手として期待する声もあったものの出場は限定的となってしまいました。 1980年に52試合に出場してシュアな打撃をアピール。1981年には出場試合を倍増させて98試合に出ましたが、その後数字を落として本編にもあるようにロッテにトレードされました。 ロッテで異例となる「内野手から捕手へのコンバート」を1985年に行ってこれが成功。本職である内野手と兼務しながら1986年には102

          1990年11月13日のプロ野球1(職業野球新聞)

          1990年11月9日のプロ野球2(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←島田誠選手は1976年にドラフト外で日本ハムに入団。1年目から貴重な戦力として一軍帯同し、2年目となる1978年からはレギュラーに定着。 長打もある俊足好守のアベレージヒッターとして走攻守でチームを牽引し、1981年のリーグ優勝、1982年のリーグ後期優勝に貢献しました。 ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞6回、通算1502安打、351盗塁という輝かしい成績を残しましたが、1988年には故障もあって成績も出場試合数も減少。1989年に復活の兆しもあったも

          1990年11月9日のプロ野球2(職業野球新聞)

          1990年11月9日のプロ野球1(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←清家政和選手は阪神に1977年ドラフト3位で入団。1981年秋に一軍デビューを果たすもオフに靭帯断裂で長期離脱し、1982年も一軍定着とはいかず、オフに西武へトレード移籍となりました。 西武では1987〜1988年にかけて準レギュラーとして試合出場を増やしましたが、1989年からは田辺徳雄の台頭等で出番が激減し、トレードで放出となりました。 広瀬新太郎投手は大洋に1980年ドラフト3位入団。一軍初出場は1983年で初登板初先発初勝利を挙げましたがこの年はこ

          1990年11月9日のプロ野球1(職業野球新聞)

          1990年11月8日のプロ野球2(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←小川宗直投手はサイドハンドの左腕で、多層主に救援として西武でプレー。四球でピンチを招く場面も少なくなく、西武での3シーズンは年間平均7登板に留まりました。 1989年オフに広橋公寿選手と共に中日にトレードされましたが(※)、中日でも1990年シーズンでわずか1登板に留まりました。 再トレードで慣れているパ・リーグの近鉄に移籍しますが、近鉄では一軍出場もなく、1992年には台湾球界の門戸を叩くことになります。 岡田耕司捕手は近鉄での一軍実績がなく、トレード

          1990年11月8日のプロ野球2(職業野球新聞)

          1990年11月8日のプロ野球1(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←1990年シーズンの小松崎善久選手は日本ハムで32試合に出場して53打席で9安打に留まったこともあって古巣の中日に復帰。1991年は30試合51打席10安打という成績でこのシーズン限りで引退しました。 基本的に当時「武闘派」で鳴らしていた星野仙一監督率いる中日の「乱闘要員」としての知名度が高く、乱闘がまだ多かった昭和のプロ野球の側面を体現していた選手だったと言えるかもしれません。 斉藤浩行選手はルーキーイヤーだった1982年にウエスタン(広島)記録となる1

          1990年11月8日のプロ野球1(職業野球新聞)

          1990年11月1日のプロ野球3(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←水上善雄選手は広島での在籍期間1年で再び移籍ということになりました。 広島では打率2割にも満たず打撃不振に苦しみましたが、152打席で5二塁打、5本塁打とパンチ力は健在で、トレードにより1991年シーズンはダイエーで復活を目指すことになります。 交換相手の榊原宗一郎選手はコーチ兼任として広島に出戻りということになっています。しかしながらこの出戻りは事実上の専任コーチとしてのもので、実際に1991年シーズンの榊原「選手」は選手として試合に出ることはなく、19

          1990年11月1日のプロ野球3(職業野球新聞)

          1990年11月1日のプロ野球2(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←今井投手は1978年頃に13勝を挙げて本格的に先発陣の一角に入り、1981年に19勝、1984年に21勝で最多勝に輝きました。 特に1984年は35歳になるシーズンながら最優秀防御率のタイトルも獲得し、ベストナインにも輝き、阪急の屋台骨となって活躍しました。 矢野投手はここまで335登板を重ねた実績のある投手で、本編にもある通り1988年にはパ・リーグ最多登板もこなしました。 #npb #オリックス #ダイエー #職業野球新聞 #野球 #プロ野球 #19

          1990年11月1日のプロ野球2(職業野球新聞)

          1990年11月1日のプロ野球1(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←1990年前後に活発に協議されていたFA制度導入を回避したい球団経営者サイドが代替として提案して開催されたのがこの「プロ野球セレクション会議」でした。 実は1970〜1972年にも同様の会議が存在したものの制度として定着せず、1990年のこの会議も(2回行われたものの1回目はトレード不成立で2回目で複数件成立)幾つか成立したトレードがあったものの、ダイエー田淵幸一監督の「リスト漏洩問題」等もあり、1990年限りで雲散霧消。 1993年オフのFA制度導入へと

          1990年11月1日のプロ野球1(職業野球新聞)

          1990年10月30日のプロ野球(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←森祇晶監督が受賞するのは1986年に日本シリーズ優勝監督として受賞して以来で通算2回目です。 受賞対象者は「その年のプロ野球の発展に大きく貢献した人物(監督・コーチ・選手・審判)」とされていますが、実際には日本シリーズを制したチームの監督が受賞することが多く、この1990年シーズンも日本一に輝いた西武森祇晶監督が受賞しました。 #npb #西武 #職業野球新聞 #野球 #プロ野球 #1990年

          1990年10月30日のプロ野球(職業野球新聞)

          1990年10月29日のプロ野球(職業野球新聞)

          →職業野球新聞←極めて異例の大型トレードとなりました。 結果から言えば、獲得した池田親興投手が抑えとして再生し、大野久外野手が盗塁王に輝いたダイエーが利を得たトレードというのが一般的な評価になっています。 阪神に加入した藤本修二投手は84年から一軍に台頭し、1985年には17敗でリーグ最多敗投手になってしまったものの、先発ローテーションとして完全に定着。 1986年からは3年連続で2桁勝利を達成する等、ダイエーの前身である南海時代からホークスで主力として通算51勝を挙げ

          1990年10月29日のプロ野球(職業野球新聞)