戦争を体験した人の話2
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昭和9年、1934年に生まれた祖母に戦時下の話を聞きながら中学生の時にレポートを書いたという記事です。
祖母が小学生の頃(1941~)、戦時中にもなると食糧不足に苦しむ人々も増えたという事実は、平成生まれの平和ボケ茹でガエルの私にとって想像の世界でしかありません。
だからこそ、忘れないために祖母の話を残しておきたいと思います。
白米に梅干しと卵焼きが入ったお弁当は、それはそれは豪華なお弁当だったそうです。
多くの子どもたちのお弁当は細切りにした大根が敷き詰められた弁当箱の片隅にほんの少しだけ麦が入った弁当で、「豪華な」お弁当を持ってきた生徒は白米ではなく麦のご飯を持ってくるよう怒られていたと言っていました。
冬の雪降る日
足袋が濡れてしまっても着替えはありません。
裸足に下駄を履いて着物の袂に足袋を入れ学校へ行き、学校で足袋を履く。家に帰るとおくどさん(竃)で冷えた足を温めたと話していました。
その他にも
海を越えた知らない国で兄弟が命を落とすこと
いつ空から爆撃されるかということが常に頭の中にある生活
疎開
お城が空襲により焼失
ものすごく遠い昔ではない約80年前の人々の生活は、私が生まれてからの生活とは何もかもが違います。
当時の環境でも大切に育てられたのだと祖母が言っていた事は、今でも印象に残っています。
「体に合ったものを適度に食べる」という信念が、87年大病を患うこともなく生きている祖母の元気の秘訣だそうです。
在所には
五観の偈が掲げてありました。
時は過ぎ
令和の時代になり、領海と排他的経済水域を操業海域として31年ぶりに商業捕鯨を再開したという記事を読んでいた祖母。(2019年の話)
新聞にはイギリスで「クジラを救え!」と訴える抗議活動が行われている写真が載っていました。
祖母曰く
「戦後の食糧不足の時代、鯨の肉は『鯨のやまと煮』など缶詰として牛肉より身近に手に入るものだった」とのことです。
「鯨のおかげで日本人は生き延びることができたといってもいいくらいかもしれんねぇ。」
そんな事も言っていました。
これからどんな時代がやってくるのでしょうか。
小さくても光を灯し続けていきたいと思います。
「足るを知る」というのは便利になり過ぎた世の中を生きる私にはまだ理解できていない言葉のようです。
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