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30歳で「中年の危機」到来?アイデンティティが揺らいだ時にキャリアはどう変えるのか

20代で既に「危機」っぽかった

本来ならアラサーらしく、キャリアと出産の両立で悩んでるはずだった。
見た目が着々と30代になっても悩みは30代特有のものにはならなかったし、これからも当分ならない。キャリアのことしか考えられないまま1年が過ぎ、先日31歳になった。

そこそこ無我夢中だった20代、飛び込んできたお茶の仕事をひたすらこなし、いい思いをたくさんさせてもらった。お茶はいつでも、私を思わぬところに連れていってくれた。

そうやって同じ乗り物に乗り続けていたら、ふと「当駅止まりです」と言われたような気がして、一も二もなく降りてしまった。それが去年の転職前のことだ。

私をここまで連れてきたものが、ここから先には連れて行ってくれないのだと、急にそう思った。
他のやり方なんて分からないのに、今までと同じことをしていても前に進んでいかないことだけが分かった。

急によく分からない駅で乗り換えないといけない。次は飛行機に乗らないといけないかもしれないが、そもそも行き先も知らない。今までの乗り物は降りてしまったので、とにかく今の私が乗れるものに乗るぞ!と転職をして今になる。

こう書くと無鉄砲なようだが、キャリアのズレは社会人開始と共に始まっていて、地下で岩盤がズレ続けた結果、その反動で地震が来たような気がする。今もあまり解決していなくて、その余震の中にいる。

地震の原因はいくつかあるが、一つのことに打ち込んでようやく定着させたキャラやアイデンティティ、20代の頃はそれでよかったような行動が、自分に合っていないように薄々感じていて、遂に無視できなくなったのだろう。

このズレは、単純な転職では解消しない。今まで積み重ねたものからあえて離れたり、また別の新しい専門性を得たりしなければならない。

戦略的トラベリングと季節労働者的キャリア

上述の話、全く共感できない人もいるはずだ。
そういう人は、下記の安斎さんのnoteを読んでいただければもうそれでOKです。(共感できた人もぜひ読んでください)

要約すると、1つの専門性を極めて一生安泰という時代は終わったので、今ある専門性から次なる領域にトラベリングして複数の専門性を得る必要があるというお話です。

専門性が1つだけのキャリアは、ゴールが明確な時はそのまま突き進めばいい。しかしこのご時世で10年後や20年後のゴールなんか設定しても、絶対その通りにならないと思う。これが「お茶は私をここまで連れてきたけど、ここから先には連れていってくれない」と思った不安感の正体だ。

そこでゴールを定めずに生きると、自然と季節労働者的キャリアになる。ああ、私は一生フラフラ迷い続けるかもしれない、と思ったのが2年前。

あと30歳という年齢も大きかった。企業の中で新たに専門性を獲得したいとき、未経験で採用されるのは20代〜30代前半ぐらいまでだ(業務委託だと未経験の仕事はなかなかできないし)。

年齢の焦りもあって、29歳の時に「この電車は当駅止まりです」と言われた気分になり、30歳になる前に飛び降りた。季節労働者的キャリアは覚悟していたので、電車を降りることへの迷いはなかった。

私のペルソナは、いつも他人がつくる

そうやって私の興味関心や仕事が移り変わったとき、他人からの認識が変えられなければ、「これまでの仕事」のイメージはつきまとう。過去の仕事が次やることに直接繋がるならいいが、常にそうとは限らない。

先の安斎さんのnoteでも、「ワークショップ」のイメージがついた後は意図的にワークショップの仕事を受けないようにし、以降は新刊のタイトルからも外していたことが書かれている。
一つの専門性を身につける時よりも、ついてしまったイメージとは別の仕事をする時のほうが工夫が必要となる。

そのため、ただ単に人に頼まれた仕事を受けているだけでは、新しい専門性を身につけることは難しい。(人に頼まれたからこそ初めてやらせてもらえた仕事も多いけども)

「〇〇といえばあの人」という第一想起を獲得した後は、「他人から見た自分」のイメージにまつわる仕事が来る。そのイメージが実際の自分や進みたい方向性とズレていたって、配慮されない。

自覚があろうとなかろうと、40代になるまえにわたしたちの大半がたどるキャリアや人生の道筋は、親や友人や職場の同僚を通した社会からの圧力によって形作られている。(中略)わたしたちは期待されていることをするだけでなく、期待されている人間に――勤勉な努力家や、気の利いた主催者や、熱心な信奉者に――なりもする。人生や外面ペルソナが最初は他の誰かによって形づくられたからといって、弱いとか、自我がないということにはならない。若いころによくあることだし、厳しいメンターに育てられた人なら覚えがあるだろうが、多くの人はその恩恵を受ける。ただし、時間が経つにつれて最初のペルソナは役に立たなくなるのだ。

ジェニファー・ペトリリエリ(2022)『デュアルキャリア・カップル 
仕事と人生の3つの転換期を対話で乗り越える』
、英治出版、p.152

誰の評価も得ず、他人の要望に応えていないものは、仕事と呼べない。だからと言って、他人に求められるならなんでもやりますと思えた時期は過ぎてしまった気がする。そうなると最初のペルソナ(お茶キャラ、特に茶会キャラ)一辺倒では結構きつい。

私は、まぁ本当に色々あったので、お茶に関してだけはやりたいことしかやりたくない。お茶にまつわるものだけは、仕事を選びたい。そうなると必然的にお茶の仕事の割合は減らさざるを得ない。だから新たな仕事の柱となるような次なる専門性が必要だった。
それで今は「私のしてきたお茶」に近からず遠からずの領域で、実務としてはほぼ未経験の仕事をフルタイムでしている。

その仕事が専門だと言えるようになるまでは、お茶も新しい仕事も中途半端なペルソナだ。しかも説明しづらいので、人に職業を話すのが億劫すぎる。

それでも、職業名がアイデンティティになるよりは、自分の中身がアイデンティティなほうが健全だ(難しいけど)。

どれだけ職業が変わっても、「〇〇と言えばあの人」の〇〇がいくら移り変わっても、変わらないもの/変われないものはある。それを見つけられなければ、今後もずっと「中年の危機」が起こり続けるのだろう。

奇跡にキャリアを振り回されない

↑最近訳あってこんな贅沢なことに気づきましたが、よく考えたら人生は「奇跡ゼロ」がデフォルトでした。良くも悪くも奇跡いいことが続いていたからこそ、長年ズレに気付きつつも、軌道修正できなかったとも言えます。

31歳からは奇跡をアテにせず、再現性のある幸運に見舞われるようにしたいですね。

引用した本

途中で唐突に引用したこちらの書籍の第五章に、当駅止まりの電車を降りた話に近い話がもっとわかりやすく書かれています。民俗学や人類学の用語である「境界リミナリティ」(アイデンティティがどっちつかずのままの心理状態のこと)という概念にも途中で触れられてますが、まさしく古いペルソナを半端に脱ぎきれず半裸になってる私を指す言葉でした…。

↑補足となるnoteはこちら。

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矢島 愛子 / Teaist🍵
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