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続けることへの執着と「紅茶の日」

今できないことができるようになれば,大げさにいうと世界が変わりそうな気がする。何も続かなかった人が何かを継続してみたら,今とは違う世界が見えそうだ。

実際に毎日お茶(主に抹茶)を点てて撮り続けて分かったことは,「続けているだけでは何にもならない」ということだった。こんなガッカリな結論すら,続けてみないことには分からなかった。

それでも,友達に「"ほぼ"毎日お茶アップしてるよね」と言われてパッと言い返してしまったほど,2〜3年前は「毎日」のお茶にこだわっていた。「毎日」であることにしか価値がないように感じていた時期だってあった。

その友達は,正確性を期して「ほぼ」と言ったのかもしれないのに。
「毎日」の「お茶(抹茶)」にこだわって,私自身は満足かもしれないが,それで周囲との関係が良好になったことは「ほぼ」ない。

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こだわりなのか執着心なのか,結局4年と10ヶ月ほど毎日のお茶を撮り続けてきた。

その中で確実に言えるのは,
執着しながら幸せになることはできない,ということ。

お茶や趣味を「好きな気持ち」がどれだけ強くとも,そこに執着心が同居している限り,手放しの幸せなど降ってこない。

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「続けているだけでは何にもならない」と上で書いたが,より正確に言うと「続けているだけで幸せでい続けられるような,お手軽なことなどない」のだと思う。
(お茶をしたらあと全部ハッピー,という思考ではないため笑)

連続する日々の中で,たまにポッと嬉しい日があって,その前後にはどん詰まりの時期もある。とてもお茶をする気分になれない日だってあった。
そんな日でもお茶と過ごしてきたから,結果として「毎日」お茶をしていることになった。

「毎日」であること自体に意味があるのではなく,「お抹茶」であることに意味があるのでもないと,今は思う。
抹茶ばかりが並ぶタイムラインに,紅茶があって何が悪い。どちらのお茶が偉いとかそんなことはなく,ただ私の人生の中に,紅茶の日があったのだ。

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今日も,コーヒーが並ぶメニューから紅茶を選ぶ。(だいたい抹茶は朝飲んで撮ってある)

しかし別に,お茶を選択しなきゃいけないことなどない。
逆に抹茶だけでなくて,「もっと色んなお茶を飲んでもよかったな」とも思っている。


冒頭で触れたように,継続で世界が変わることはそうそうない。
でも毎日のお茶は,考え方と世界の見方を変えていると思う。

今の私が見ているのは,紅茶“も”ある風景だ。



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