叶わなかった願いの先にあったもの
これまでも、これからもきっと私は「自分の名前を呼ばれること」にこだわり続けるのだろう。何年後かにこの記事を読み返しても、うんうんとその時の私も頷くだろう。
4年前に書いた記事で、私はパートナーに名前で呼んでほしいと2回に渡って思いを放り投げたのだけど、結局、私の願いは叶わなかった。全然叶わなかった。叶わなかったどころか、そのパートナーはもういない。
4年間と半年くらい、耐え続けた。私は辛抱強いんです、と自慢してもいいんじゃないかと思う。
だから、今度は最初から「呼んで」と言うことにした。いっそのこと自分のニーズは全開にしてしまえばいいと思った。恥ずかしかったけれど、後悔だけはしたくないという一心だった。
そうしたら、周りの人はみんな私のことを名前で呼んでくれるようになった。ひらがなだったりローマ字だったりするけれど、呼んでくれるようになった。ひとりだけ、漢字で呼んでくれる人がいた。
そして、リアルでもちゃんとそれをそのまま"音"にして呼んでくれるようになった。そんな人たちの中に囲まれながら生きていけている。
耐え続けた心がへにゃへにゃと座り込んでしまった。こんなに呼んでもらって、嬉しくって、くしゃくしゃに泣いた。
「呼ばれなくっても大丈夫だから」と言いつづけて、言い聞かせ続けて、知らないうちに頑なになってしまったものをあたたかく溶かしてくれる瞬間がついに来たと思った。
たった一言、私は名前を呼ばれるだけで胸がいっぱいになって、ただただその感覚を噛み締めた。ありがとう、本当にありがとう、と心の中でずっと繰り返さずにはいられなかった。
だから、当時の願いは確かに叶わなかったけれど、今はもうそれでよかったんだとすら思う。
そうしてもらえることの幸せは、叶わなくて辛いと感じていた深さと同じ、いや、それ以上だったと気づくことができたから。
絶望なんて、いくらでもある。
いくらでもあるけれど、その辛さや悲しみの先に、すべてを忘れさせてくれるような何かや出来事、誰かがいるかもしれないことだけは忘れずにいたい。