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マーマレードを作ってダルメイン邸へ行く
「マーマレードをありがとう。僕はもっと甘い方が好きかな、イギリスで食べたような」
マーマレードのお礼と感想はオレンジが大好きな友人から。
「あぁ、良かった!砂糖は控えめだったから、次はもっと甘くするね」
久しぶりに声が聞きたくて、という彼の言葉に嬉しくも心細くなり、今日これから3泊4日の検査入院をすること、結果次第では約束していたマーマレードを送ることができなくなるかもしれないから急いで作ったことを矢継早に話す。
ただただ彼を驚かせ心配させてしまい、申し訳なかった。
*
2度のCT検査、血液検査、PET検査、気管支鏡検査と生検、MRI検査と続いた不安な1カ月。
結果は「肺の2ヶ所に癌細胞がある、ステージ4」、主治医から告げられた。
「あなたはまだ若いから、都内の病院にも通えるでしょう?転院先を探してきて。ステージ4はね、化学療法しかできないけど…、ここでの最初の薬は○○。前からあるのはゆっくり進行していて、PETで光っていた方は進行の早いがんのようだ」
退職する歳をとっくに過ぎている主治医は抗がん剤がそこにあるかのように「このくらいの」と彼の手のひらを私に見せた。
いつもテキパキと主治医の側でアシスタントをしている看護師さんは私にティシュを渡そうとしたけれど、私は首をふって断った。
がんと告げられたら泣く人が多いのだろうか。人生初の「心臓が止まるほど驚いた」時、涙は出なかった。
8年前、目の前にいる主治医にお世話になった父は、手術、放射線と化学療法を受けられたが2年経たず亡くなった。今ならその治療計画がよくわかる。父の時には、肺癌について詳しく知ろうとしなかったし、知りたくなかった。
私の左肺の影の一つは、数年前に他の病院で気管支拡張症と診断されていたのに、なぜ?
今回のPET検査で赤く怪しく光っていたのはがんかもしれない、いや違うはず、とあれこれ悩んだり調べて過ごしたが、二つの影ともがんだなんて、5年生存率が4.7%のステージなんて、想像すらしなかった。
疲れがとれないなぁ、と思いながらも更年期だからと我慢して過ごしてきたことを後悔してもしきれない。
*
友人に検査結果を伝えた後、静かに聞かれた。
「君の夢は何?」
「夢?私のティーに貴方がきてくれること」
「あはは、なんて小さな夢なんだ」
電話の向こうの声は優しく、泣きそうになる。
「ガーデンティーはどう?これから爽やかな季節だから」
「それはいいね」
「大きな夢は…、世界中のマーマレード愛好家がダルメイン邸に集うマーマレードアワード&フェスティバルに招待されること」
「マーマレードの大会か…。僕の寿命はあと20年あるかどうかだよ、これからなんとなく20年生きるよりお互い5年でやりたい事を全部しようよ」
ーーとは言ったけど、何と励ましたら良いかわからなかった、と後に彼からメールをもらった。
「そうだね、夢をかなえる!」と私は応えたが、娘の花嫁姿は見れないのかも、と思った。
そして電話を切ってすぐ、スマホからがん情報サイトで治験の登録をした。
*
一週間後、診察室の椅子に座ったとたんに「これ読んで」、主治医から渡されたのは〈検査結果訂正報告書〉
「今すぐ国立がんセンター中央病院に紹介状を書いて下さい、今日これから行きます」とお願いするつもりでいた。
長年、癌専門に病理診断をしていた叔母の友人から勧められたがんセンターは、紹介状があれば当日予約なしの飛び込みも受け入れてくれる。
その二枚のレポートには私の知らない単語ばかり並んでいた。
扁平上皮癌→左肺下葉negative、左肺上葉suspiciousに赤い線が引かれている。
隣に座っていた夫も驚いて「negative⁈ 、suspicious⁈」その箇所を口に出して読んだ。
「最初は細胞での診断、次の組織診では結果が違った。そう、まだわからない。とりあえず1カ月、2種類の薬を飲んで。CTを撮ってから再度、気管支鏡検査をするか決めるから」
ああ、あの検査をもう一度するくらいなら、手術で疑わしいところは取ってほしい。昨年、「肺がん疑い」の生検で結果が出ず、手術をして確定診断を受けた夫の友人もいる。
1か月後、私の異形細胞ががん化してしまったら?
「次は5月17日に」
聞きたいことがあったけれど、何をどう質問してよいかわからず、ただ「はい」と頷いた。
再び待合室の椅子に夫と座り、渡された報告書を見る。「肺がんステージ4」から「肺がん疑い」に戻った、らしい。
あと5年、ないのかもしれない、と覚悟して診察室に入ったけれど…、この状況をすぐに理解できない。よくあることなのだろうか、めったにないことなのだろうか、疑いは晴れるのだろうな。
「僕の愛で治すよ」
夫の台詞で我に返る。冗談を言う場面ではないけれど、まわりの空気が少し和んだ。
夫だけでなく私のために祈ってくれている友人を一人一人思い浮かべながら、ありがとう、ありがとう、心配かけてごめんなさい、と繰り返した。
*
崖から落ちたと思ったら奇跡的に木に引っかかっている。運動神経の全くない私が無傷で着地するにはどうしたらいいのか。
そしてこの経験には何か意味があるだろうか。
疑問の答えを得るのにH.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか〜現代のヨブ記』を薦められた。
「言葉は力である」
何度も読み返した。大切な本としていつも側に置きたい。
5月17日、CT検査台に横になったら急に鼓動が早くなる。こんなにドキドキしていたら、肺を正確に撮影できないのでは?
診察室でPC画面をじっと見る主治医が「小さくなっているね」と言う。3月の画像と今日のを比較して見せてくれた。「良かった!」同時に声が出た叔母と目が合う。
あの看護師さんが「旦那さんにも見せてあげて下さい」とCT画像をプリントアウトしてくれた。
身体症状はどう?と主治医に聞かれ、左背中の痛みはまだあって、でもこの何年かのうちで一番楽になっています、と答えた。実際、咳はある時を境にピタリと止んでいる。
肺の影が小さくなって、体調が良くなっている理由、他にもあるような気がするけれど、それは言わなかった。
毎週末、夫に連れられてラジウム温泉の岩盤浴に通ったり、姫マツタケの顆粒を飲んだり、脈を診るインド人の偉い先生が来日した時に薦められた生ハチミツを食べている。
他にも、柑橘類の皮に抗炎症作用があると知り(特に河内晩柑、松山大学薬学部生薬学研究室の分析データによる)、自作のマーマレードも積極的に食べていること。『がんになったら読む本』によると、それらは主治医に伝えた方が良い情報らしい。
付き添いの叔母が看護師さんに「セカンドオピニオンを…」と、そっと言う。「治療の効果が出ていますから今は必要ないです」の返答。
「効いているようだから続けて薬を飲んで。次は2カ月後、7月12日、またCTを撮るから」
今回も先生から詳しい説明はなかったし、私も質問しなかった。まるで進行がんのように見える私の肺の影の原因は先生にだってわからないのだろう。
*
見上げた青い空に広がる翡翠、緑茶、萌葱の色。
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肺がんステージ4と突然告知され、治療は延命のみ、と知った時の衝撃がフラッシュバックして何も手につかなくなると、植物たちとコミニケーションを取りたくなって庭へ出る。
体調が悪かったことを言い訳にして、庭に手入れが必要な花は少ない。けれど、日陰を作る大きな樹木、生命力溢れるシナノキ、アカシデ、モミジ、桂、欅、ジューンベリー、ヤマボウシ、山茶花がある。
裏山からひばりの声が楽しそうに響き、深呼吸をすると木の精霊たちに囲まれている。
2013年、イギリスで最も美しい庭「ザ・ガーデン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたダルメイン邸の庭は、今たくさんの花々が咲きほこり、一年で一番美しいはずだ。
ダルメイン邸と2万平方メートルに及ぶ広大な敷地のヒストリックガーデンは、ロンドンから北に約480㎞、ピーターラビットの舞台、湖水地方の田園風景に佇む。
この屋敷で1630年代の古いマーマレードのレシピが発見されたことがきっかけで、マーマレードアワードが始まった。
*
毎晩、月を眺めている。
『はてしない物語』の月の子(モンデンキント)でも、かぐや姫でもないけれど、なぜかいつも月に呼ばれているような気がしていた。
友人からKing Crimsonの「Moonchild」を教えてもらう。メロディはもちろん、詩が美しい。私はその歌のmoonchildのように夜明けを待っている日々。
処方された2種類の薬のうちの一つはステロイド剤。飲み始めて1カ月半が経った頃、鏡を見て思った。ムーンフェイスだ。
体重は増えていないのに、重く感じる頬。「骸骨怪人よりもいいよ」と夫は言うが、馴染みの顔ではない。
少し前までは神秘的な月を崇めていたのに、まんまるお月さまがオレンジのようにも私の顔のようにも見えて可笑しい。
そして河内晩柑を使ったマーマレードが仕上がった6月のある日、封書が届いた。
表にダルメイン世界マーマレードアワード&フェスティバル日本大会、実行委員会事務局と印刷されている。五年前の第一回に比べて立派な封筒の中身は4月に応募したマーマレードの点数と評価だろう。開けてみたら賞状も入っていた。
検査入院前に急いで作った甘夏のマーマレードは、低糖部門に応募するか迷って、結局、愛媛県産の柑橘類部門に出品した。
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長女にあと0.1点で銀賞だったと話すと「ママは銅賞の中の一位だね!」と喜んでくれた。「そうか!嬉しいな〜、マーマレードの神様、ありがとう」
友人にもこの賞のこと、「マーマレードを作ってダルメイン邸へ行く」のは夢ではなく目標にしたいこと、マーマレードを作る度に「いのちと時間」は無限ではないことを思い返している、と伝えたかったが電話は繋がらなかった。彼は今、あの時に話してくれた彼の夢を追いかけている、と思った。
○私のマーマレード
材料
甘夏4〜5個
果肉 400g、皮200g
レモン汁 30cc
グラニュー糖 300〜350g
コアントロー 5cc
作り方
1日目
1.甘夏を洗う。8等分に切り目を入れて皮をむく。
2 .房から果肉を取り出してボウルに入れ、レモン汁とグラニュー糖半量をまぶし、ひと晩冷蔵庫におく。房と種は取っておく。
3.皮をなるべく薄く切る。
4.3をたっぷりの水に一晩つける。(30分から6時間でも、お好みで)
2日目
5.4の皮を15分くらい湯がき、ボールにあげる。(茹で時間、湯こぼし回数はお好みで。私は苦味が好きなので長く茹でない)
6.細かく刻んだ房の内皮と種を鍋に入れてひたひたの水を加え、弱火でとろみがつくまで煮詰める。水が少なくなったら水を足す。ざるで濾しペクチン液を作る。
7.2、5、6を鍋に入れ、強火にかける。沸騰したら中火にし、アクを取りながら15分煮る。
8.残りのグラニュー糖を入れ、焦げないように混ぜながら、さらに15分煮る。
9.コアントローを加え、ひと煮立ちさせる。
10.熱いうちに熱湯消毒した瓶に詰め、逆さまにして完全に冷めるまでおく。
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*マーマレードを作る際の砂糖の量は果肉と皮の合計量の半分以上必要です。それ以下だとせっかく手間をかけたのに日持ちがしませんし、マーマレードではなくとろみのない砂糖煮(コンポート)になってしまいます。
*私は4月に愛媛県産甘夏、5月にデコポンとオレンジのミックス、6月に河内晩夏、7月に河内晩柑とオレンジのミックス・マーマレードを作りました。
同じ作り方をしても、柑橘類の種類や皮の厚み、果肉の水分量・糖分により全く違う仕上がりになります。マーマレードが完成するまで砂糖の匙加減が正解だったかは、わかりません。
それと、仕上がってすぐよりもマーマレードは少し時間が経った方がまろやかな味になります。それも楽しみなので、何度か試してお好みの砂糖の分量を探ってみて下さい。
『デザートの歴史』からマーマレードの元祖について
中世の食事の最後には果物だけでなく、チーズ、コンフィ、イポクラス、甘くスパイスの効いたマルメロのジャムも出された。マルメロのジャムには赤ワイン、シナモン、そして(または)生ショウガでさまざまな風味づけがなされていた。このジャムは、古代ギリシャやローマが発祥地だ。甘みにはハチミツが用いられていたが、中世アラブの菓子職人や、その後スペイン人やポルトガル人が砂糖を使うようになった。スペイン人は自国語でマルメロを表す語にちなんでこのジャムを「メンブリージョ(membrillo)」と名づけ、ポルトガル人はポルトガル語の「マルメロ(marmelo)」から「マルメラーダ(marmelada)」と呼んだ。これが今のマーマレードの元祖になる。
16世紀には、木箱につめたマルメラーダが初めてポルトガルからロンドンに輸出されている。薬や催淫剤として効果があると評判で、また高額だったため、マルメラーダは上流階級で人気の贈り物となった。
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*
7月12日、CT検査、血液検査と診察日。いつの間にか左背中の痛みが消えている、マーマレードの効果だろうか。芭蕉の句をもじって「夏草や 胸の影にも 夢の跡」を思いついた。そうなっていますように。
義母が亡くなってから15年間、夫の父は一人で梅仕事を続けた。そして毎年「我逝きて 梅干し残る 瓶(かめ)の中」と笑いながら詠んでいた。
私は四季折々、季節の果物でジャムやマーマレード、コンポートを楽しんできたけれど、これからはもっと丁寧にマーマレードを作りたいと思う。
義父が作った梅干しのように、私のマーマレードも誰かの思い出の中に残ったら嬉しい。
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オレンジ色にきらきら輝くマーマレード、薄いカリカリのトーストにたっぷりのせて頬張った人が笑顔になる、そんな幸せな朝ごはんの風景を想像している。
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