行動すれば何かが起こる
僕は中学卒業後、オーストラリアのメルボルンに留学した。行く高校は現地に行ってから決めれば良いやと何も決めずに渡豪して、学校とホームステイが決まるまでメルボルンに住む親戚の家にお世話になることになっていた。
メルボルンに到着して2日目の朝、親戚の家の近くのアルバートパークレイクという湖(1996年からF1のオーストラリアGPのコースになった)の周りをジョギングしていたら、おじさん達がサッカーの試合をしていた。僕は中学までずっとサッカーをやっていたので、できればオーストラリアでもサッカーがしたいと思ってはいたが、まだインターネットも無い時代、情報を何も持っておらず、英語も全く話せない状態で、でも何とか突破口を開こうとした僕はダッシュで親戚の家に戻ってサッカーのユニフォームに着替えてボールとスパイクを持って、再びグラウンドへとダッシュで向かった。
おお良かった。まだ試合は終わっていない。おじさん達はちゃんとしたユニフォームを着て試合をしてるので地域リーグの試合か何かだろう。試合が終わるまで、おじさん達が試合をしているグラウンドの横でリフティングをしたり、ドリブルをしたり、「サッカー好きな少年がここにいますよー。話しかけてくれても構いませんよー」というオーラを出して、ずっとボールを蹴っていた。
試合が終わると、おじさん達はどこかに移動してしまいそうな雰囲気になった。やばい、とにかく何とかしなければと思った僕はわざとボールをおじさん達の方に転がして取りに行く振りをして近づいた。
「ハロー。アイライクサッカー。レッツプレイ。アイウォントトゥプレーサッカー」
カタカナ発音でこんな感じの事を言った気がする。するとおじさん達が一緒にボールを蹴ってくれた。ボールを蹴り始めたら国が変わろうがサッカーはサッカーだった。
30分ほど一緒にボールを蹴った後、僕はグラウンド近くのクラブハウス的な所に連れて行かれた。おじさん達は着替えてビールを飲み出し、僕はジュースをもらって飲んでいると、おじさんの一人が僕に手書きの手紙のようなモノを渡してくれた。何を言っているか1割もわからなかったが僕の肩を抱いて笑っているので、悪い内容では無いだろうと手紙を受け取り、帰宅後、伯母さんに手紙を見せた。
なんと、それはSouth Melbourne Hellas という、当時のオーストラリアの最高峰のサッカーリーグに所属するチームのユースチームへの招待状だった。そして僕はSouth Melbourne Hellas のユースチームでプレーする事になった。
この日から数日後、僕は通う高校とホストファミリーを決めて、親戚の家を離れたが、このチームでサッカーを続けた。最初の1ヵ月は試合で使ってもらう事は無かったが、練習では少しずつチームメイトの名前を憶えて英語でのコミュニケーションも多少は取れるようになっていった。
そして1993年6月某日、チームはビクトリア州のナンバー1を決める大会を勝ち進んでいたが、この日は苦戦していた。残り10分、スコアは1-1、相手にだいぶ攻められている。僕はいつものようにベンチで戦況を見つめていると、「Masa!!」と監督に呼ばれた。ついにデビューだ。
僕が左のウイングとしてピッチに入った後も、相手に押し込まれていて、中々ボールに触るチャンスが来なかったが、ディフェンスのクリアボールが左のライン際センターライン近くにいる僕の方に飛んできた、僕は左足でボールを前にトラップすると、そのまま左サイドを駆け上がり左足でドンピシャのクロスを上げて、それを味方のフォワードがヘッドで勝ち越しゴールを決めた。チームメイトが僕の方に走ってきて手荒い祝福を受けた。今でも覚えている最高の瞬間だ。
そのまま2-1で勝利した僕達は、翌週の試合も3-0で快勝。僕はついにスターティングメンバーに選ばれ1ゴールを決めた。スーパースター伝説の始まりだと僕は自分に期待した。
ところが、その数日後、僕は日本にいた。
腎臓が悪く人工透析をしていた母が突然亡くなってしまったのだ。働いた金は全部自分の酒とギャンブルに使ってしまうアル中DVの父親の代わりに、雀荘を経営してお金を稼いで僕を留学させてくれた母がいなくなって、僕がオーストラリアに戻れるのかわからなくなってしまった。僕は配管工事のアルバイトをして3ヵ月日本に滞在した。結局メルボルンの伯母がお金を貸してくれる事になり、僕は再びオーストラリアに戻った。
South Melbourne Hellas のユースに戻ったが、大好きだった母親を失ったショックからか、どうしても身体が動かず、僕はチームを去る決断をした。高校に通う事が精いっぱいでそれ以上の事をできる余裕が無かった。
デビュー戦で勝ち越しアシストを決め、次の試合でゴールを決めたあの大会は、僕が日本にいる間も続き、チームメイトはビクトリア州で準優勝した。突然の母の死を乗り越えられなかった僕はあの時チームを去ってしまったが、このトロフィーを見る度に、とにかくサッカーがしたくて慌てて親戚の家に着替えに帰った時の気持ちを思い出す。やりたい事があればすぐ動くという僕のスタイルの原点がここにある。
それから23年後、息子が同じような経験をする事になった。僕の妻が突然の交通事故で亡くなってしまったのだ。僕が母を亡くしたのは16歳。この時の息子はまだ10歳。母は病気を抱えていたが妻は健康で死とは遠い所にいたのでショックは僕の時よりも大きい筈なのだが、息子はサッカーを続ける事を選んだ。
今思えば、16歳の時の僕には非認知能力と自己肯定感が足りなかった。だから母の死というショックで心が折れてしまった。本当にしんどい時に這い上がれる力が無かった。だから僕は我が子が非認知能力と自己肯定感を高められるような育て方をした。勿論、サッカーを続ける事ができたのは息子の強さだ。だけど、16歳でサッカーに戻れなかった僕がその後に様々な経験をし、学び考えて生きてきた事が、息子の背中を押す力の一端になれているのならとても嬉しい。
そしてサッカーから離れた16歳の僕が、そこから2年掛けて通っていた高校でサッカー部を立ち上げて再びサッカーに戻っていく話もいずれ書けたらと思います。