アラフィフおじさん、生まれて初めてマグロのお寿司を食べる
私はアラフィフになるまでマグロのお寿司を食べたことがなかった。理由は、
「食わず嫌い」
しかし、私は自分が書いたnote記事の中で、その年の目標としてマグロのお寿司を食べることを宣言してしまったがために、食べなければならなくなった。
記事の最後で私はこんなことを言っている。
嘘は言っていない。けれど・・・こんな「歯の浮くようなセリフ」に我ながらちょっとイラッとする。ただ、
そのまま何事もなかったかのようにスルーすることもできた。その記事を読んだ人もきっと覚えていないだろう。でも、自分で宣言した以上、そのままにするのはやはり落ち着かない。
それに、私がnoteをやっていることを知っている友人はこのことをちゃんと覚えていて、ことあるごとに「まるおさん、マグロのお寿司食べました?」と訊いてくる。普段はどんなこともすぐに忘れてしまう友人なのに。
年末が近づくにつれて、ますますそのプレッシャーは激しさを増していった。
もう、逃げられない・・・
私は観念した。
年の瀬迫る12月某日。
私は、「普段はどんなこともすぐに忘れてしまう友人」と「スシロー」へ行った。
初めて食べるならとびっきりのマグロを、と思ったけれど、そんな凄いマグロを出してくれるお店はきっと敷居も値段もお高いお店だし、なによりそんなお店に行って、マグロを一貫だけ食べて帰るわけにもいかない。
とはいえ、私が食べられるお寿司といえばイカと玉子とおしんこ巻きぐらい。
つまり、高級すし店でマグロを頼んだあと、そこからイカと玉子、そしてもしあったらおしんこ巻きを注文するしかないのだけれど、その「お子様チョイス」が高級すし店の大将のイライラや不快感に繋がりかねないことを考えると、とてもじゃないが行く勇気はない。
そうしたリスク回避のためには、やはり回転寿司が最適なわけで、しかも友人曰く、スシローのマグロなら「ま、普通に美味しいです」ということなので、普通に美味しければいいだろうとスシローになった。
お寿司ド素人のこんな私でも優しく受け入れてくれるスシローには本当に感謝している。
それに、最近の回転寿司は多くのお店でタッチパネルによる注文だ。しかもボックス席なら他のお客さんの目も気にならない。
そのおかげで、小さな子供がマグロとかサーモンとか「大人なお寿司」を注文している隣で、玉子とイカ、そしておしんこ巻きをこっそり注文するアラフィフおじさんという、恥ずかしすぎるシチュエーションも回避できる。
お寿司のネタを何でも食べられる人にはきっとわからないと思うけれど、玉子とイカ、そしておしんこ巻きぐらいしか食べられない私は、それだけしか食べられないことに満足しているわけではなく、私なりにちょっと恥ずかしく思っているのだ。
かといって、恥ずかしいという理由だけで、好きでもないマグロやサーモン、ブリやハマチを無理して食べるのも違う。
食べたくないものをわざわざ食べるだけでなく、そうしたネタはほとんどの場合、玉子やイカよりも高価である。周囲のお客さんへの見栄のためだけに食べたくないお寿司にお金を出すなんて、私はそんな愚か者ではないし、何よりバカバカしすぎる。
「マグロ、注文しますよ」
友人のその言葉に私は我に返り、そして静かに頷いた。
数分後。
フィギュアスケーターのように華麗にレールの上を滑ってきたマグロのお寿司は微かにバウンドし、私たちのテーブルの前で鮮やかに着地した。
友人が慣れた手つきでレールからマグロのお皿を取り、私の前に置く───
いつもはイカや玉子がいるその場所に、今日はマグロがいる。私は初めて、真正面からちゃんとマグロを見た。
こうしてきちんと向かい合うのは初めてだ。今までは誰かの陰に隠れて、こっそり見ていたマグロ。
マグロの前になるといつもはにかんでいた私が、今は堂々と、そのマグロの前にいる。それだけで私は、なんだかまたひとつ、大人になったような気がした。
ただ、問題はここから。見るだけではなく、今日はそのマグロを食べるのだ。
食べるというのはつまり、その料理との対話なのだと私は思っている。そしてそれは、私と料理との相性を確かめる一大イベントでもある。
私とマグロ、果たして相性はどうなのだろう。
微かに震える箸で、私はそっとマグロのお寿司を掴んだ。そして、今まで数知れない友人知人たちがやっていたように、マグロに醤油をつけ、口の中へ・・・
ついに、私の歯がマグロに触れた!
そして、私の歯がマグロの深いところへと入っていった───
二度、三度、そして四度と咀嚼する。そしてゴクッ・・・ついに、食べた。
私はついに、あのマグロを食べたのだ。
今までずっと、誰かに隠れてこっそり見ていた、あのマグロを。
みんなが大好きな、あのマグロを。
思えば初めて会ったのは、私がまだ幼き少年だった頃。まだ田舎にいたあの頃。
以降、何度も何度もマグロは私の前に現れ、そして誰かの口の中へと消えていった。マグロはいつだってみんなの輪の中心にいて、その場でのんびりとどまることなく、あっという間に誰かにさらわれていく。
生まれた時からスターであることを約束された、まさにお寿司のカリスマ。アラフィフにして、ついに私はそのマグロを食べたのである───
思えば私の人生いろんなことがあった。その年月を振り返ると泣きそうになる。
楽しいことばかりではなかった。むしろ苦しいことが多い人生だったかもしれない。
この感傷、自分がアラフィフになったことに対してなのか、ついにマグロを食べることになったことに対してなのか、よくわからないけれど、とにかく私はアラフィフにしてついにマグロを食べたのである。で、
マグロはどうだったか?だけれど・・・
発表の前に一言、お伝えしておきたいことがある。それは、
全国のお寿司屋さん、ならびにマグロ好きな方はどうか、ここで私の記事を読むことをやめていただきたい。
なぜなら、私は無用なトラブルを起こしたくないから。つまり、
「マグロ好きな人は、この記事を読まないで欲しい」この一言でこの先のすべてを察して頂ければと思う。
私がアラフィフにして初めて、マグロを食べた感想、それは───
「なんか・・・ほとんど味のしない、やわらかグミを食べているみたい」だった。つまり、
全然美味しくなかったのだ。
それに、ちょっと生臭い気が・・・ま、生ものだから当然である。
なぜ世間のみなさんは、こんなに微妙なモノを大喜びで食べているのだろう。私にとっては玉子やイカのほうが圧倒的に美味しい。なので、私はマグロを食べたあとすぐ、お口直しに玉子とイカを一皿ずつ食べた。
よく、大人になると味覚が変化していて、子供の頃は不味いと思ったものが大人になってから美味しく感じられたりする、というけれど、私にとってマグロはそうはならなかった。
私の場合は幼き頃にマグロを食べていないので、自分の味覚の変化を体感することは出来なかったけれど、実は子供の頃から「マグロってこんな味なんじゃないかな」と、味の想像はしていた。
そしたら、本当に想像通りの味だった。
食べる前から「想像通りの味だったら、私の好みではないだろう」と思っていたら、本当に私の好みではなかった。
人は見かけによらないというけれど、少なくともマグロは私にとって見かけ通りだったわけである。でも、
私はもう、マグロが「食わず嫌い」ではなくなった。「食わず嫌い」ではなく「食べて嫌い」になった。
これが、私とマグロのお寿司の出会いの顛末である。ただ───
実際にマグロを食べて「やっぱり苦手」だということがわかってよかったと思った。実は、私はある時から「マグロが苦手」であることがマイナスではなく、むしろプラスなのではと感じていたから。
今まで、マグロとは本当にいろんなところで会ってきた。
友人の結婚式だったり、ちょっとした食事会だったり、あるいは旅行などで旅館の食事を頂く時とか。
コース料理などで目の前にマグロの刺身や、マグロのお寿司が現れたとき、私はいつも隣近所の友人知人に「これ、食べる?」とマグロを指差した。
「えっ!?」
友人知人は驚くが、私が刺身全般が苦手だと言うと「じゃ、貰う」と嬉しそうに食べていた。
コース料理を予約していたとある飲み会では、コースでは定番のお刺身が出てきた。その時も私はマグロが苦手だとカミングアウトし、私のマグロの刺身はちょっとした争奪戦になった。
何度も何度も、私はそうした場面に遭遇してきた。
つまり、私は目の前に私だけのマグロが用意されるたびに、必ず誰か一人を笑顔に、幸せにしてきたのである。
こんなに素敵なことがあるだろうか?
自分の苦手なものによって、身近にいる誰かを笑顔に出来るなんて。つまり、
マグロが苦手な私は、ただ生きているだけで「誰かを笑顔に出来る人」なのである。
もちろん、食わず嫌いが正義だとは思っていない。食育を軽んじているわけでもない。
しかし、苦手な食べ物のことで思い悩んだりしている人がいるとしたら、それは違うと思うし、どうしても食べたくないものがあったとしても、そのことに引け目を感じる必要はない。
同じ「食わず嫌い」なら「前向きな食わず嫌い」であって欲しいと思う。
あなたの嫌いな食べ物によって誰かを笑顔に出来ることがあるし、逆に誰かの嫌いなものをあなたが食べることであなたは幸せな気持ちになれるかもしれない。
あなたの嫌いが誰かの好きであるように、誰かの嫌いがあなたの好きであるかもしれないのだから。
「マグロを食べられないなんて、人生損してる」
そんな言葉を浴びせられたことは一度や二度ではない。でも、私は言いたい。そして教えてあげたい。
「マグロを食べられなくて人生損してるかもしれないけれど、マグロを食べられないからこそ得していること、嬉しいこともあるんだよ」と。
それに、マグロを食べられない人が人生損してるんじゃない。そのことをマイナスだと思うか、プラスに捉えるかで人生の損得は決まるのだ。
物事はすべて捉え方次第なのだと私は思う。
年の瀬に、食わず嫌いだったマグロを食べた私は、ちゃんとマグロが嫌いになって新しい年を迎えた。
そして新年早々、スシローで一緒にマグロを食べた友人に会ったのだが、年末年始を田舎で過ごした友人が私にくれたお土産が───
青森りんごのグミだった。
・・・・・ん?
これってもしかして───
生まれて初めてマグロを食べた時、私は友人に言った。
「なんか・・・ほとんど味のしないやわらかグミを食べているみたい」と。
だから、「ほとんど味のしないやわらかグミ」の口直しに「ちゃんとしっかり味のするグミ」を買ってきてくれたのではないだろうか。
しかも、マグロとリンゴは色も同じ赤。ずいぶん粋なことするじゃん、と思っていたら・・・
たまたまだった。
私の妄想は鼻で笑われてしまった。
そもそも友人は、私がマグロについて「ほとんど味のしないやわらかグミ」と言ったことをすっかり忘れていた。普段はどんなこともすぐに忘れてしまう友人は、やはり普段通り、忘れていた。
だから私も普段通り、妄想を小脇に抱え、今年もnoteという海に出る。
その広い海を泳ぎながら、みんなの目を引くマグロのような美味しいネタではなく、地味でもおいしいネタを見つけたいと思っている。