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悪人と、エリートと、往生と

中学校の頃だったのか、高校なのか。

悪人こそ救われる、という言葉を授業で聞きいた。

歴史だったのか、倫理だったのか。

善人でさえ救われるんだから、悪人が救われるのは当然という、鎌倉時代の親鸞の教えで「悪人正機」と言われている。

これは意味がわからなかった。

悪人とは、人を殺したり、人の金を盗んだりする人で、それでも救われる、なんて言ったら、勉強なんかしなくていいし、親の言うことも先生の言うことも、法律にも従わなくていいでしょ、と思うのは当たり前だ。

何故か、この言葉にはすごく執着して、理解したく、教科書や解説本のその部分を何度も読み返して、強引に納得させた記憶がある。

それから40年程。

「あれっ、そういうことか!」と分かった気がした。

そのヒントになったのは100分de名著。

分かった!と思ってから、確か悪人正機のことを言っていた回があったなと検索し、見直した。

やっぱりそうだ。
「悪人」の意味が現代とは違うんだ。

この文章の中で言う善人とは、自分で厳しい修行をして悟りを開いた(あるいは開いたと思いこんでいる)人達のこと。

悪人とは、厳しい修行をすることなく、浮世で煩悩を抱えて生きている人たち。

特に、殺生を生業に生きる人達や、商人など、当時の世界では、見下げられて生きている人々を悪人と言っていたそうだ。

しかし人はみな悪人として生まれてきた。悪人を救うために仏様はいるのだから、まずもって悪人は救われる。

自ら悟って善人になった、と悪人と善人を上から目線で区別するような人であっても仏様は救済されるであろうから、悪人はなおさらだ。

当時、それほど貨幣経済や科学が進んでない時代には、仏様という存在は、至上のありがたいものだったろう。

貨幣経済や科学が進んだ今は、何が有り難いだろう。

やはりお金ではないか。

そう考えると、現代の「善人」とは一部のエリートのことであり、自己責任で厳しい競争に打ち勝って、高所得を得た人であり、昔の悟りを開いた人と同じように羨ましがられ、雲の上の存在。

お金に不自由している人は、努力していないんだから救われなくても自己責任でしょ、と言う人は、親鸞というところの善人か。

また、マイノリティーとして差別されたり肩身の狭い思いをしている人も、昔で言う「悪人」なのかも知れない

「悪人」のレッテルを貼られ、肩身の狭い人生を送っている人、煩悩を抱え不条理の中で生きている人々こそ、仏様は救うために存在している、と考えると、なんか自分の中の悪人正機説は、スッキリと腑に落ちる。

このテーマの第二回の最後には、初めて見た後には忘れていた話があり印象的だった。

やはり、現代の善人(富めるもの)の方が、生きやすく、その人たちの経済力を持って、現代社会を運営していくのは、理にかなっている。

でも、その中で取り残される人たちのために、別の世界観を提示して、あなた達こそ救われるのですよ、というメッセージを送るために本来仏教だけでなく、宗教というのはあるし、あるべきだ、という部分。

話が一瞬飛ぶが、演劇の舞台とは観る人にとっての鏡の役割をしている、と100分de名著のハムレットの回で言っていて、神社の御神体も鏡のことがあり、演劇と宗教の間には、相似するものがあると気づいた。

そこから考えると、演劇というものも、今のグローバル経済の中でこぼれ落ちる「悪人」、マイノリティーであり弱者のために、別の世界観を照らし続けているのかな、とふと思った。

既存の宗教が手を差し伸べられなくなっている、今を息苦しく生きている人たちのために、演劇はほんの僅かでも補完できる役割と力があるんじゃないかと、ふと思った100分de夕食の片付けの時間であった。

救われた気がしている悪人の一人として。