見出し画像

自然と対話なんか

今日も対話について。

二十代の真ん中辺、2年、山小屋で働いていた。

日帰りがメインの山で、シーズンオフの梅雨の時期は、週末が雨だと二週間ほど人に会わないこともあった。

「あっ、今日は何かが動いた」と思うとカラスが数羽。

しかし、ピークシーズンは、逆に大変だ。

昼も夜も、とても一人ではさばけないようなことになる。

2年目のピークシーズンは、近隣の山小屋がすべて家庭の事情で閉まり、とんでもないことになった。

山小屋の経営者も、その年の全国的で初めての米不足をカバーするために、沢山の米処の知り合いをひたすら巡っていて、麓にはいなかった。

山歩きすらあまりしていない自分が山小屋のハイシーズンの運営をすべてを完璧になど、絶対にすることはできない。

絶対に守らなくてはいけない優先順位を自分で考え、頭に叩き込んで、どうにかそのシーズンの小屋と登山者を守ることだけはできた。

25歳の自分の全力を出し切った。

しかし、経営者からは冷たい反応だった。

自分が全力で山と山小屋を守った一ヶ月の売上は、本家の山小屋の繁盛期の1日と変わらない。
ねぎらいの言葉もなく、売上だけ持って山から降りていった。経営者としては、私の判断に不満もたくさんあっただろう。

その態度に、山で働く気持ちがほぼゼロになってしまった。

失意とはこういう事なのか。

当たり前だった登山口から背負い上げる食料が、今までの何倍にも重く感じた。

オフシーズンになり、気力なくようやく背負い上げて山小屋が見えた時、普段は気にもしたことのない、くるぶしほどの高さの花がこちらを向いて咲いていた。

その時に、花が話しかけてくる様な錯覚にとらわれた。

私は、最後の力を振り絞って小屋に入り、呆然とした。

花が話しかけてきた。

落ち着くと、目の前のいろんなものが話しかけてきているんじゃないかという気がして、小屋の屋根に登った。
 
山はもう秋だ。

誰もいない山で、茜色に近づいて来た空や雲、目の前の木々すらも話しかけてきた気がした。

今思うと、私は人間以外の存在と話ができる超能力を身に着けたのではない。逆だ。

目の前に広がる景色を通じて、根本的で普段現れない。物心ついた時から隠してきた自分自身と深く話をしたのだ。

言葉を持たない植物や自然と話をする、というのは言い方を変えると、心の奥底にある普段は絶対に現れない自分と話をすること、自然との対話とは、自然に近い原始的な自分との対話だと最近考えている。

自分との対話は、時間もかかるし、大変だけど、お金はかからないので、ぜひ皆さんも。

山小屋で働かなくても、きっとできます。

もっと大変な日々を送っているみなさん、何気ない路上の花にふと何かを感じた時、あなたの中のあなたが咲いた時ですよ。

おやすみなさい。