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僕は三丁目の電柱です

最近、店に立っていると、この宣伝のことを思い出します。

50年近く前。

「僕は三丁目の電柱です 雨の日 風の日 街角に立ち 遠くを見てます ながめています」と歌います。

自分も商店街の店に立ち、どんな日も天ぷらを揚げながら暮らしています。

ただそこにいる。

普段気づかれない存在でも、その街の風景になっている。

ひょっとしたら今、自分が目指すのはこれじゃないか、と思いました。

子供でも大人でも、こんな小さな惣菜天ぷら屋が、油まみれのユニクロと白衣で、適当な加減でホドホドに生きているのを見て、しんどい時「自分も、まだ大丈夫かも知れない」と思ってくれたら、それがいい。

ちょっと近視的に最近生きていたな、と反省して肩の力を抜いて仕事をしていると、いろんな人がやってきます。

最近、外国から来て、この街で暮らし始めた人が増えました。

彼らが天丼を買ってくれたり、道を尋ねてくれたりします。屋台みたいな店ですから、だれでも気軽にコンタクトできる。

そんな人達に満面の笑顔で応対します。

そうすると相手も最高の笑顔で返してくれます。

これでいいんじゃないか。

ところで、私はタニノクロウさんの演劇が好きで、よく見に行くのですが見終わると、どこまでが舞台で、どこからが自分の日常なのか分からなくなります

劇場を出ると、「ここからはあなたが、好きなように演じる番ですよ」と言われたかのようです。

以前観た「虹む街」は、いろんな国の人が暮らしている、ちょっと場末感ある横浜の飲み屋街が舞台だったのですが、自分が小さい頃の商店街みたいでした。

高度経済成長の頃に、日本のいろんな地域から人が集まって始まった街は多様性というより雑多でした。でも、裏付けのない小さな希望を将来に描いて多くの人が生きていました。

「あっ、まさにこれだった!」と。

タニノクロウさんは、その舞台の中で宣伝用プラカード持ちの役をやっていました。

特に何もしゃべりません。

その存在は、自分の中では「三丁目の電柱」に近いです。

自分が三丁目の電柱の様に店に立ち続けることは、「虹む街」の延長であり、日々の生活が、まるで目の前が舞台で役を演じさせてもらっている錯覚に陥ります。

話は飛びます。

WBCの準決勝日本メキシコ戦、一点差で日本が負けていました。

9回裏、最初の打者は大谷選手。

初球を打って二塁打。

その時の気迫あふれる、日本ベンチへのアピール。

「絶対に諦めるんじゃねえ」と言っているようでした。

そして、それは選手だけでなく、日本人全体に向けているような錯覚に陥りました。

決勝の最後も、彼の信じられないような信念と集中力で、チームを引っ張り、日本に優勝をもたらしました。

この瞬間、日本がトランスフォメーションするんじゃないかと思いました。

ネチネチ言っているだけで、リスクも取らず、過去の栄光で生きている世代がすべて吹っ飛んだ。

優しさと厳しさを兼ね備えた若い人が引っ張っていく日本になる。

これは自分だけでなくて、多くの著名人も言っていて。

例えば為末大さん。

44歳の為末大さんですら、こんな感想を持つのです。

であるなら、53歳の私など、とっくに隠居です。

だから思うのです。

三丁目の電柱としての存在、大事なんじゃないか。

街を見つめて眺めているけど、口は出さない。

でも、疲れた時に、何かホッとする一つのパーツとして、存在する。

仕事を頑張ってきたそろそろ骨休みの世代が、若い世代に干渉せずにすべて任せて、本人は仕事をスローダウンして楽しそうに生きていたら、若い人たちも、今は全力で頑張って、あの年になったらまた別の人生を楽しもう、と希望にならないかなと今日思いました。

今日は三丁目の電柱と同じ時代の懐かしいCMでお別れです。

見たことのない花が咲くでしょう。

追記 これも似たニュアンス。