西尾久という町について
みなさんは尾久という町を知っていますか?
山手線田端駅から北に十分くらい歩くと、入国(入域)できる知られざる町です。
(田端駅自体が山手線の中で一番降りる人が少ない。さらに田端より近いJR尾久駅は、どこの県の駅なんだみたいな、のどかな駅です。どちらからも10分くらい)
荒川区は割と東西に長くて、都内で唯一残っている都電が東西に走っています。
都電が停まるところは駅とは言わずに、電停と正式には言うそうです。
その電停を降りると、それごとに、町の雰囲気が違うのが結構面白いです。
地元の人間は単に「都電」と言いますが、一応今は「さくらトラム」が公称のようです。
西尾久は荒川区の西端。
東端は南千住です。
千住というからには、日光街道奥州街道のルートであり、日本橋から最初の宿場町が北千住であり、松尾芭蕉が「行く春や鳥啼き魚の目は泪」と詠った場所でもあります。
荒川区の東側はそれくらい歴史があるにも関わらず、我が西側の尾久となると今でも田舎です。
そんな地域でも、掘り出せばいろんな歴史があります。
一番古いのは、班田収授法の時代。
区画整理がされたそうなのですが、その区画が今でも残っている珍しい場所なのです。
大正時代には、西尾久の宮ノ前のお寺から温泉が出ました。
それから、歓楽地として発展。
料亭、宿、芸能。
そして、阿部定事件です。
その頃の話を、阿部定事件のあった目の前のとんかつ屋さんの大将が、コロナで大変な頃に、親族に改めて聞いたうえで話してくださいました。
(大変盛り上がりましたが、慣れないこともあり、聞きづらい点もあります。少しずつ飛ばして聴いてください。私も参加しています)↓
どん平さんのおじいちゃん、おばあちゃん、お父さんの話は本当にNHKの朝ドラみたいな話です。私たちの町の始まりを聞かせてくれます。
アナザーストーリーでも、その後に阿部定事件は少し違う側面から紹介され、とても良かったです。
太平洋戦争では、日本で初めて空襲を受けた場所でもあります。
戦後は高度経済へ。
どんどん、町工場ができて、人が集まってきました。
特に私の住んでいる「小台電停」近くは、東北本線尾久駅から近いこともあり、東北からたくさんの人が集まってきました。
しかし、生活スタイルの変化が起きて、パンク寸前ぐらいに混んでいた商店街は衰退期に入り、終わりかと思った頃にまた、令和の時代に新たな動きが今あるのですが、今日の所はこの辺で。
また書いていきたいと思います。
読んでくださり、ありがとうございます。
追記。少し前にも紹介したのですが、西尾久出身のお二人のトークが面白いので、こちらも良かったらお聴きください。
二時間半の音声なのですが、トーク開始は、1:30:00からです。