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サン=サーンスのピアノ音楽の評価

サン=サーンスといえばフランスロマン派の言わずとしれた偉大な作曲家です。非常に多岐にわたるジャンルで多くの作品を残しておりますが、ピアノ作品について言及されることは非常に稀です。ここではサン=サーンスのピアノ作品に対する私の見解をまとめてみたいと思います。

サン=サーンスとピアノの関係性

サン=サーンスというと管弦楽曲の「動物の謝肉祭」をはじめ、管弦楽曲、交響曲、交響詩、ピアノ協奏曲など規模の大きい作品が非常に有名です。一方でピアノ作品はというと、代表作として有名な作品ははほとんどなく、CDショップでもピアノ作品集のCDがびっくりするほど少ないという状況です。

この事実を最初に知ったとき私は非常に疑問に思いました。そう思う理由は2つあります。

1つにサン=サーンスのような類まれなる才能を持った作曲家で、しかも多彩なジャンルで作曲家ならピアノ作品でも必ず何かしら優れた作品はあるだろうと思ったからです。サン=サーンスは全作品数が膨大なのですが、実際にピアノ作品も数自体も決して少なくはなく、私が買った全集ではCD5枚組の曲数でした。

もう1つは、サン=サーンスを調べてみるとピアニストとしても非常に優れた腕前を持ち、ピアノという楽器がサン=サーンスにとっても大きな存在であったことです。作曲家としてではなくサン=サーンスはピアニストやオルガニストとしても活躍したことが知られています。

サン=サーンスのピアノ音楽は「平凡」

なぜサン=サーンスのピアノ音楽は今日ここまで広まっていないのか。私がサン=サーンスのピアノ作品全集を購入してすべて聞いてみると、その理由がなんとなくわかりました。

理由は後ほど分析しますが、サン=サーンスのピアノ作品は、びっくりするほど凡庸なものだったのです。

誤解のないようにいえば、もちろんまったく魅力がないわけではありません。しかしクラシック音楽史上、ここまで著名な作曲家であることを考えると、素晴らしい作品を生み出していること期待してしまうのですが、決してその期待を満たすような水準ではなかった、という表現が適切かもしれません。

サン=サーンスのピアノ作品に私が感じた印象

サン=サーンスのピアノ作品に対して私が感じた印象として、次のような例え話を出したいと思います。

例えば、小学校・中学校の国語の授業の宿題で「自由なテーマで作文を書いてください」というお題が出たとします。

テーマが決められていない限り、どんな内容にするか、テーマをどうするかは書く生徒によってさまざまです。テーマに限らず、作文内に使う語彙、言いまわしなどは誰一人同じになりません。そこではそれぞれの個性が現れるでしょう。

それは作文ではなく芸術作品に関しても当然あてはまることです。そこで、もしサン=サーンスが作曲したピアノ作品を、生徒が書いた作文の宿題の提出物に例えて見たいと思います。次のようになります。

「 まったく誤字脱字もなければ、日本語の文法の誤りもまったくなく、正しい言葉づかいによって書かれた文章。そして文章の構成が完全に整っており、論理的に書かれ非常に読みやすい文章。…しかし1つ重大な大きな欠点がある。それは、書かれている意見や感想が平凡で、読んでてまったく面白みのない」

これが私の感想です。上の比喩を音楽的に言い直すと、サン=サーンスは正しい和声法と楽曲の形式を厳格に守って作曲をしており、すべてにおいてしっかり書かれている印象を受けます。しかし、決まったやり方を踏襲するあまり非常に作品が没個性的なものになっているのです。

多くの芸術作品に言えますが、ベストプラクティスとされるやり方を取り入れれば、決して人に批判されることもありません。しかし、結局は同じことの繰り返しにより面白みが失われてしまうリスクもあります。

もう一度作文に例えてみると、サン=サーンスは、面白さやちゃめっけや個性を出すために、突飛な内容を誰も使わないような言葉づかいで書いた生徒の作文とは対照的に、採点者に減点されないように、絶対に使って間違いはない言葉づかいで、当たり障りのない内容を書いた優等生の作文に似ています。

ほかの例えでいうと、私はサン=サーンスのピアノ作品を聞いてると、作文の問題集についている模範解答の作文例であったり、英語の問題集の暗唱例文を読んでいるような面白みのなさを感じてしまうのです。

批評家はどう評しているのか

ちなみに、私はこのような印象を受けたのですが、この感覚は私だけではなく、批評家も同様に感じているようでした(←共感者がいたような気分でなんか嬉しかったです…笑)

20世紀を代表する有名なフランスのピアニストのアルフレッド・コルトーも、自身の著書『フランス・ピアノ音楽』の中で、サン・サーンスのピアノ音楽に関して、「傑出した職人の型にはまった仕事」や「職業的機械製」によって作られた音楽と表現しています。コルトーのこの著書はいろんな作曲家に対して結構辛口コメントが多いのですが、「没個性の中に個性的なスタイルの要素を識別できない」というコメントも辛辣でした。

サン=サーンスは、前述のとおり相当なピアノの腕前を持っていました。何よりもその作曲家としての才能から、作曲の仕方というものも十分に分かっていたはずです。コルトーが指摘していますが、十分にわかりすぎていたからこそ、その決められたやり方を繰り返すことに満足していたのでしょう。

コルトーはサン=サーンスのピアノ作品の特徴として、「技法と展開の工夫に対する偏重」というコメントがありましたが、これは、決められた語彙を使い、意見の表現の仕方、文章のパラフレーズの仕方、文章の構成の仕方を変えているだけで、結局は特に目新しい意見や見解を述べているわけではない作文や論文と同じといえるでしょう。

サン=サーンスのピアノ作品に価値はないのか?

以上のように、コルトーは、サン=サーンスのピアノ作品にかなり手厳しい批評を加えています。ただこの数多くのピアノ作品の中で、コルトーが「魅力的なものがないわけではない」と言及しているようにもちろん、彼の作品には聞き心地の良いものもたくさんあります。実際に私も趣味でピアノで弾いていたものもありました。ただ、それでもサン・サーンスのピアノ作品に良い評価が与えられなかったり、ここまで埋もれてしまうのはなぜでしょうか。

理由の1つは、彼の生きた時代が悪かったということが大きいでしょう。サン=サーンスはかなり長生きです。彼はドビュッシーが巻き起こした革新の時代を通り、ミヨーの多調性の音楽が生まれる時代まで生きたのです。そのために、多くの新しい音楽の中に、彼のいつまでもやり方の変わらないスタイルが「ネガティブな意味での保守」という言葉で際立ってしまったのかもしれません。

もう1つの理由は、最初に私が感じた「期待はずれ」感でしょう。彼は、他のジャンルで非常に優れた作品を残したにもかかわらず、またピアニストとしてもかなりの腕前をもっていたにもかかわらず、それをピアノ作品の作曲で十分に生かすことができなかったために、ピアノ作品に対するがっかりの落差が大きいのだろうと思います。

彼の作品は、また別の機会で紹介したいのですが、作曲において非常に工夫していることがわかります。しかし残念ながら、例えばドビュッシーやショパンのピアノ作品のように、聞いただけで「あ、この作風や雰囲気はあの人の作品っぽい」とわかるようなな強い個性を生み出すことはできませんでした。その点で、サン=サーンスのピアノ作品はいまひとつ魅力が足りていないものだと私は感じています。

念のため付け加えると、彼のすべてのピアノ作品が無価値なものではないことは言うまでもありません。壮大なオーケストラを好む人もいれば、サロン音楽的な趣味を帯びた小さなワルツを好む人もいます。後々のプーランクやシャミナードにも通じるような「旋律」を重視し、深遠さはないものの気軽に聴ける親しみやすい作品として、評価される曲も多いでしょう。

なぜピアノ作品だけがイマイチなのか

なぜサン=サーンスは優れた作品を生み出せなかったのでしょうか。その理由はもはやわかりませんが、少なくとも感じ取れるのは、サン=サーンスはそもそもピアノ作品に大きなエネルギーを注いでいなかったということです。

というのもサン=サーンスのような伝統的な作曲家であれば、「ピアノソナタ」とかピアノ組曲だとか、規模の多い作品を作ってもおかしくはないのですが、ピアノ作品ラインアップを見ると小品が非常に多いのです。

本格的な作品を作りたい場合はオーケストラで、息抜きがてらつくる作品はピアノ作品で、など本人の中で棲み分けがあったのかもしれません。

つまり、もしサン=サーンスが「ピアノソナタ」などを規模が大きくなりがちな作品を書いていたらそれはまた違ったものになったかもしれません。

彼の作曲家としての魅力は別のジャンルに大いに発揮されており、実は私もほとんど聞いたことがないのでいずれ聞いてみようかなとは思います。そのときにまた、サン=サーンスの違う側面を発見できるかもしれません。

#クラシック   #クラシック音楽   #サンサーンス #フランスの作曲家

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