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水面を揺らす

2024/04/10

 水なんて、何にもなれないじゃないか。どんな形にでもなれるという水のように、僕は柔軟に生きてきた。どんな器にだって収まってみせた。しかしどうだ、僕はどうなった。いいように使われて、何者にもなれていないじゃないか。水なんて何よりも柔らかいだけで決まった形なんて持てず、ただ無力に流れることしかできないんだ。
 湯気の中をくぐって湯船に浸かる。その温かさにため息が出る。なんとなく手のひらを見る。昔、これは幸運を掴む手相なんだって言われたんだけどな。おかしいな。上手くいかないな。ゆっくりと手を握り締める。拳を作る。振り上げて、水面に打ちつける。
『ピシャッ!』
 水しぶきが顔にかかり、手の甲で拭う。風呂にいるんだから意味もないのに。ああ、何にもならないな。
 あれ、なんだこれ。水面から水が盛り上がってくる。少しずつ大きくなって、ペットボトルほどの大きさの水の塊が、湯船に生えた。それはだんだん形を変え、握り拳の姿になった。「よくも殴ったな」とでも言うようにゆらゆらと揺れている。もしかして、風呂が僕に怒っているのか?
 水の拳は、ゆっくりと後退し始めた。これは、きっと、助走のための後退だ。この拳は、僕を殴ろうとしているんだ。水面を殴った僕を、殴り返そうとしているんだ。
「ちょ、ちょっと待てよ、そんなつもりじゃなかったんだ。君を傷つけようと殴ったんじゃなくて、その、そもそも君に意識があったなんて知らなくて。殴ってしまったのは本当にすまなかった。ごめん。頼む、許してくれ」
 拳は何も言わず後退を続ける。
「やめてくれ。復讐は何も生まないぞ、憎しみの連鎖が始まるだけだ。そんな不毛なことやめようじゃないか」
 僕の薄っぺらな台詞じゃどうにもならないようだ。暖簾に腕押し、糠に釘、水に命乞い。拳は一瞬ぴたっと止まり、ついに助走を始める。ものすごい勢いで顔面に向かってくる。僕はのけぞって、両腕で防御を試みる。
『バシャッ!』
 水の拳は僕の腕にぶつかって砕け散った。痛みはない。今まで拳の形だったものがしぶきとなって降りかかってきただけだ。顔を拭う。
 はぁ。やっぱり水は何にもなれないんだな。ひとまず安堵して、同時になんだか悲しくなった。

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