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めざせ余暇人!/自分という器
歌人、小島なおさん
コロナ禍前のことですので、もう5年も前になりますが、歌人の小島なおさんの短歌教室に通っていました
コロナ禍となり、短歌教室がオンラインになった時、何だか期待しているものと違うと感じ、短歌教室に通うのを辞めてしまいましたが、ずっと短歌は気になっています
この年末年始、Youtubeで何度も小島なおさんのお話しを聞いて、新しい発見もあり、今年、またはじめることを計画しています
短歌だけでなく、俳句、詩全般がそうですが、多くの人が「詩」って言うときに思い浮かべる美的な感覚は、それはもう詩ではない。短歌や俳句、詩は、まだ誰も見つけていない言葉の面白さとか謎とか美しさを見つけにいくもの。みんながエモいとかポエティックだというものは、既にみんなに浸透しているものなので、それは詩ではない。
そうではないものを見つけに行くのが詩の目的なので、(みんなに理解してもらえないことは)恥ずかしいことでなく、みんなをオッと思わせたり、何かわからないけど惹かれるというのが、そういうものが本質的な詩。みんなが分かってしまうものは詩ではない。
言葉を超えてつながる
古来より日本では、言葉には霊的な力が宿り、発した言葉が現実世界に影響を与えると考えられています。良い言葉を発すれば良いことが起こり、悪い言葉を発すれば悪いことが起こります
自分の発する一言、一言を大切にするということは言うまでもないですが、今年は、相手が発している言葉を受け入れ、深くかみしめみたいと思います。それと同時に、昨日のブログに書かせていただきました、言葉の向こうにあるものにも意識を向けて、言葉を超えて繋がれる人ができると良いなと思います
もう一つ、小島なおさんのインタビューのコメントをご紹介します
(短歌は器のようなものと表現されることについて)
もし本当にそうであるなら、短歌は自分の心を入れる器であると同時に、誰か他の人の心が満ちるのを待つ器であるとも思います。自分の嬉しさ、自分の悲しみというものは、自分一人のものではなくて、それは遠く近く、社会の悲しみや世界の喜びにもつながっています。自分にしか詠えない一首を追求しながらも、誰かの心を入れる余白、余裕というものを持っていきたい。自分の心だけで器を一杯にしないよう気を付けて歌を詠っています。
この器のお話しは、短歌に限ったことではないですね。短歌に親しむことで、共感する力や他の人が心が満ちるのを待つことができるような余裕を身に付けることができるかな・・・
自分の器の中に他の人の心が入ってくることを許容する。そんな余裕や余白をみんなが持つことできたら、言葉を超えてつながることができる。そんな関係を創ることができるかもしれない。そんなことを考えています