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毎日の暮らしを豊かにする余白/エッセイ:つくもがみが棲む国⑤
第五回 古都を歩く
「付喪神…。もう一度調べてみよう」
京都へ向かう新幹線の中、私は改めて付喪神について調べてみた。「中川政七商店の読みもの」というサイトに、付喪神について分かりやすく書かれた記事を見つけた。
付喪神は室町時代に描かれた「付喪神絵巻」に登場する妖怪で、当時の人々は、100年以上経った道具に魂が宿り、妖怪化して、立春に人々を困らせると信じていた。
記事を読み進めていくと、こんな一節があった。
「室町時代って、日本で最初の大量生産・大量消費の時代であったという見方があります。その時代の精神性を反映して、こうした付喪神の物語も伝承されたのではないでしょうか」
そう語られるのは、民俗学者の小泉凡さん。あの耳なし芳一を紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)のお孫さんだそうだ。
「なるほど。もしかしたら、当時もまだ使えるものを捨ててしまう風潮を危惧して、付喪神の話が生まれたのかもしれない。」
そう考えると、付喪神は、物を大切にする心を忘れた人々への警告だったのだろう。
「そんな世俗を心配する気持ちや、遠野でみた自然への畏敬の気持ちがないと、妖怪は生まれてこないんだ。」
私は、窓の外を流れる景色を見ながら、そんなことを考えていた。
京都に着くと、街は観光客で賑わっていた。
「すごい人だな…。」
私は、人混みをかき分けながら、街を歩いた。
清水寺、金閣寺、銀閣寺。
有名な寺社仏閣はどこもかしこも人でいっぱいだ。
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「みんな、何をしに来ているんだろう?」
私は、ふと疑問に思った。
「観光?」
「歴史に触れるため?」
「それとも、何かを求めて?」
人々の目的は様々だろう。
けれど、私は、どこか寂しさを感じていた。
「今の日本に、妖怪が生まれるような余地があるのだろうか?」
かつて、人々は自然の中に、あるいは、古くなった道具の中に、神や精霊、妖怪などの存在を感じていた。
そして、それらを畏れ敬い、共存してきた。
けれど、現代社会では、そうした感性は失われつつあるように思う。
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みんなが当たり前だと思って、現状に危機感を持たなければ、
例え危機感を持っていたとしても声にしなければ、時代は易きに流れてしまう。
「私たちは、何も考えず、モノを消費するだけの存在になってしまったのだろうか?」
昔の日本人は、妖怪の力を借りて、自然への畏敬の念や、世俗への警鐘を伝えていたのかもしれない。
少なくとも、昔の日本にはそれを受け入れる素地があったのだと思う。
「妖怪が消えてしまった日本、しかし、人の心が妖怪を作ったのだとしたら、それを必要とする人がいると、きっと妖怪はまたこの日本に生まれてくることができる。」
そんなことを考えながら、古都京都の日は暮れていった。
(次回、最終回。健太郎は旅の終わりに何を思うのか。)