一人でお花見ってやっぱおかしいのかな
2018年4月1日、私は兵庫県姫路市にある姫路城へと桜を見に来ていた。
大体この時期は花粉症ひどくて体調万全じゃないから、ふだんはあまり外に出なかったんだけど、世間の人々がやるようなことを、自分もやってみるべきなんじゃないかという衝動に突き動かされて、私は姫路城へとやって来た。
姫路駅からずっと見えてるのに、歩いても歩いても着かない感じがして、意外と遠いなぁって思ったのを覚えている。姫路城はおっきいから、遠くからでもよく見えるのね。そのため、すぐ着くように思うんだけど、実際はそうじゃない。
それで、姫路城の桜を見て、どっかでお弁当買って桜の下に座って一人で食べよっかなって思ったんだけど...
桜の下でご飯食べてるのは、家族連れや友人グループがほとんどだった。一人でいわゆる「花見」をしてる人は全然いなかったんだ。私もさすがに一人でそんなことしたら浮くと思って(一人旅はそれまでさんざんしてたんだけど)、桜を見て写真を撮っただけで帰ったんだ。
でも変だなって言語学者の私は思った。
花見という日本語を『精選版日本国語大辞典』で引くと
はな‐み【花見】((名)) 花を見て遊び楽しむこと。主として春の桜についていい、花の下で宴をはり、遊興すること。
とある。
花見の「花」が日本ではふつう「春の桜」を表すことは、「花」という類で花の一種である「桜」を表すんだけど、これは上位概念で下位概念を表すシネクドキー(提喩)の例として、認知言語学では有名なものなんだ。そこはいいよ。
でもどこにも、一人ではダメだとか、複数の人間でするなんて、定義に書いてないじゃん。なんで一人でしないのかな?
あ、でも「宴」ってあるな。「宴」や「宴会」っていうのは酒や料理を飲み食いしながら楽しむ人の集まり、会ってことだから、やっぱり複数の人でやるもんなのか。
でもさ、「花見」は「花」プラス「見る」だから、本来は「花を見て遊び楽しむこと」のような定義の前半を表してたと思うのね。でもそれを一人でやっても楽しくないから... 大勢でやって料理や酒持ち込んで盛り上がったら楽しいから... 人数に関しても「何人でもいい、人数不問」という上位概念(類)が「複数の人数、宴会」という下位概念(種)へと、シネクドキー的に限定されたと思う。
なんていちいちさ、きれいな桜見て写真撮りながら、そんなことふつうの人は考えたりしないよね。でも、そういうことを念頭に思い浮かべるのが、言語学者というものなんだと私は思ってる。
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