無題

橋を渡る!

2018年4月20日、私はお台場から田町の方へと、レインボーブリッジを歩いて渡った。実は、「橋を渡る」という行為には、いろんな象徴的意味があると思う。

認知言語学などで使われている概念で、メタファー(隠喩)というものがある。『認知言語学キーワード事典』では次のように説明されている。

隠喩(メタファー)とは2つの事物、概念の間に類似性が成り立つとき、一方の形式で他方を表現することを言う。例えば、「リチャードはライオンである」という隠喩表現は「リチャード」と「ライオン」との間に成り立つ「勇敢さ」という類似性に基づいている。

このようなメタファーは、リチャードのような個人(個体)だけでなく、人生などの一連の経験を喩えるのに使われることもある。

人生は一般に旅に喩えられる。典型的なのは、美空ひばり「川の流れのように」の「知らず知らず 歩いてきた 細く長い この道」のように、人生を旅の経路に喩えて表現するものだ。

このような《人生は旅である》というメタファーに関して、大堀壽夫『認知言語学』は次のように説明している(p. 78)。

「人生」には誕生と死はあっても,それ以外の要素について細かい構造が決まっているわけではない。しかしメタファーによって構造化が行われることで,一部の要素が表されただけでも,関連する他の要素が喚起される。例えば、「旅」の中で「道筋」が話題になったときには、これと関連して路面の状態,速度、分かれ道などが参照可能となる。また、一生における時間の経過は、物理的には誰にとっても均等なはずだが、「回り道」をしたり「駆け抜け」たりといった捉え方がされるのは、「旅」という概念が重ねられることで,道を行くスピードの違いを「人生」についても考えることが可能になるからである。

確かにそうだと思う。そういった喩えの中で、橋を渡るということは、ある種の象徴的意味を持っている。

人生における川というものは、ある段階と段階を切り分けている境界線のようなものだ。その境界線というのは、どこでも越えられるものではない。つまり、橋が架かっている場所でしか越えることができない。

どれか橋を1つ選んで、それを通って、別の段階におけるある場所にたどり着くということは、人生の中で新たな段階に移行するきっかけとなる選択肢を1つ選ぶことに他ならない。

どの橋(つまり選択肢)を選ぶかによって、別の段階にどのような形で移行するかも決まる。

このような意味合いを考えながら、私はレインボーブリッジを渡った。

私がレインボーブリッジを渡ったのは、ピグでよくお話ししていた散歩が趣味の女性に勧められたというのもあるんだけど、それ以外に自分の中で何かを変えたいという意思があったからだと思う。

それまでずっと、私は本当の自分を抑えて生きてきた。

橋を渡ることにによって人生の新たな段階に移行できるような気がしたということが、レインボーブリッジを渡った動機の1つであったことは否めない。

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