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人にはそれぞれの正義がある。
誰にでも信じている世界がある。
その世界は人の数だけ存在している。
近い感覚や雰囲気は理解できても、完全に共有する事は出来ない。
先日、20年近い付き合いがあった後輩と決裂した。
高校時代から知っている存在。
その考えがそもそもフィルターになってしまっていた。
人は変わる。
もしくは結局変われない。
問題は自分もそうであると言う事。
自分も年を重ねる毎に変わっていくし、変われない部分も併せ持っている。
後輩には仕事の依頼をした。
彼もやりたいと合意に至った。
出来るだけやり易いように、出来るだけ負担の無いように。
こちらとしては手を尽くした。
結果としては、用意しすぎたのだと思う。
彼はそこまで歓迎されて、なんの負担もなく責任者として任されるには
あまりにもスキルが足りていなかった。
気心知れた仲であると言う慢心から、どんなことでも相談してくると
勝手に待ってしまったのだ。
最終的に後輩は、仕事、役職、家、福利厚生のすべてを用意した人に対し
「あなたの人間性には付いて行けません」
と言う宣言となった。
まるで、親に対して「生まれて来たくて生まれたわけじゃない」とか
「子どもは親を選べない」等と言ってしまう状況によく似ていた。
与えすぎた結果、彼は後に引けなくなり、最後には人のせいにして逃げた。
人を育てるなんて話はおこがましい話であり、人は勝手に成長するものである。
マネージメントに関わった人ならわかるだろう。
前提として、どこへ向かってほしいのか、どんな人になって欲しいのか、何をもって成長なのか。
そう言う基礎的な部分の共通認識があって初めてマネージメントの成果を問うものであって、負荷をかけないようにサポートし続けるだけでは全く意味がない。
学校教育が一定基準を設けていながら、全員が同じ水準で卒業できない様に、それぞれに合ったやり方と、それぞれが目指すべき道を示す必要がある。
見ているだけ、サポートするだけでは成り立つはずもない。
無職となった後輩が最初に選んだ行動は、結婚だった。
時間が経って思い返すと、この行動が間違いだと言えないなと感じるようになった。
幸せの形はそれぞれあり、お金があろうが無かろうが、無理をしようが楽をしようが、それもすべてその人の選択であり、人生なのである。
どこかで面倒を見てやろうとか、あいつの為になれば等と思っていたのかもしれない。
何度も人には裏切られたが、その根本は自分にあるのだ。
これからも様々な立場で色々な人と関わると思うが、お互いが完全に納得した状況で、仕事もプライベート両立させるのは、非常に難易度の高い話だと再認識させられた。
彼とはもう関わることがないとは思う。
理由は色々とあるのだけれど、仕事内容を批判しても、人格を否定してはいけない。
彼の行動を見て、その刃が私に向くこともあるのだろうなと思ってしまったからかも知れない。
組織で働くことを辞め、独立したり、友人と店を構えたり、色々と職場を変えてきたけれど、結果何も変わっていない。
この業界が好きであるとともに、近すぎる人間関係にも嫌気が差している。
そんな自身のわがままさが導いた結果かもしれない。
私も結婚をし、新たな環境下に見を置くこととなったが、いつ何時でも変わらなければならないのは、自分自身であり、これからもずっと続いていくのだろう。