劣等感の克服方法
私には様々なジャンルの友人がいる。色々な人の話を聞いてて思うのは、どんなに人から華やかに見えても、素晴らしいステイタスを持っていようともそれぞれ闇の部分があるということだ。
闇の部分とは何か。ここで言う闇とは劣等感の事だ。周りと比べて強い劣等感を持っている。それが闇になり弱みになる。
劣等感は本来悪いものではないと思う。周りと比べての劣等感がエネルギーになりどんどん自己成長していく。
しかし過度な劣等感はたとえその人自身が素晴らしいものを持ってようと自分にあるものを見る事が出来ず、自分が持っていないと思うものを外部から運んできて埋めようとする。そしてそれが大きな問題を呼んでくる。
これは、環境、育ち、教育だけではないと思う。どんな過酷な環境でもバネにして邁進していく人がいる。どんな親に育ってもあまり劣等感をもたない人がいる。
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私自身虐待サバイバーであり、幼少期親、周りから認められず育ってきたと思う。同時に自分自身で自分の強みを幼少期発見した時から周りから何を言われようとされようと受け止め、跳ね返せる事ができるようになった。
周りに全然だめ!と言われてもあなたは私の良さを気づけていない残念な人
私に相応しくない人は去っていくわね
そう思っていた脳内お花畑な人だ。この状態は状態で問題かもしれないが、おかげさまで強い逆境力を持つ事ができた。
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友人とコンプレックスをテーマに語り合った。褒められるのでも認められるのでもなく、存在自体当たり前であり、関心を持たれない事が一番問題かもしれない。そんな話をした。
私の友人は誰もがうやらむ家柄であり、スーパーすごいと思う学歴と職歴だ。しかしそんな人にもコンプレックスがあり、数十年経っても夢にまで出るという。
それの背景は二つある。
一つ目はたとえ周りから見るとすごい事であってもその家ではその状態が当たり前の為、褒められる認められる事はなかったことが理由らしい。
二つ目は周りにいるさらにすごい人たちと比べた事らしい。絶対にかなわないものを生まれつき持っている人達がいる。もし、その学校、学部に入らなければ感じなかったかもしれないが、トップに入るとまたさらにすごい人たちの集団に入り、その中で誰かと比べ、自分はダメだと思い込む。そして自信がなくなる。
周りと比べるなと思っても比べる傾向のある人は比べてしまうのであろう。また競争する現場に身を置くことは嫌でも比べてしまうのかもしれない。
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今、長女は大学受験勉強中だ。地域の中でも優秀な大学の中の一番難しい学部を考えているようだ。私は彼女が楽しく過ごせるのであれば正直どこでもいいと思っている。
そして優秀な人の中で揉まれる事の良い面悪い面もあるのだと思う。いずれにせよ、自分に起こること、自分が感じる事一つ一つが学びになればいい。そう思っている。
長女はかなり強い自己肯定感を持っている。何をしても私ならできる、私なら問題ない、出来ないことはないという根拠ない自信を気づいたら持っていた。自分を認める事ができる力はもしかしたら生まれ持っているものもあるのではないだろうか。
そしてそんな長女だからこそ色んな荒波を乗り越えて欲しいし、応援したい。
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どのようにすれば異常な劣等感をもたないのか改めて自分なりに考えた。
①出来ない自分を受け入れること
②できる他者を認めるということ
③境遇による劣等感はさらけ出す(自虐)
私にはできないものが、持っていないものがたくさんある。
その一つは貧乳だ。私の胸は小さいので寄せてあげてパッドを入れている。小さいが小さいことは受け入れていると同時にいつか胸にでっかいシリコンでも入れられるのであれば入れたいとも本気で思っている。
シリコンを本気でいれたいと思っている私も受け入れている。
別に整形して自己満足になるのならそれでいいと思う。他人に迷惑はかけないはずだ。
二つ目は周りにはすごいと思われる人たちがたくさんいる。どうあがいても背伸びしても叶わないと思う各ジャンルのすごい人たちがいる。
その人たちの事は正直すごいと思うし尊敬しているとともに彼らを持ち上げるつもりはない。どんなにすごくて偉い人も基本対等に接したい。
おべっか使うわけでもなく、すごく自分を卑下することもなく、かなりフランクに対等に接しながらも、彼らの事を尊敬している。
同時に彼らにはそれぞれ弱みがある。そんな弱みの部分も含めて人間らしいと思い、尊敬している。
三つ目の境遇による劣等感は山ほどある。多分他者であれば人には言いたくない隠したい境遇をいくつか持っている。そしてそれをネタにしている。
それが虐待サバイバーであること、レイプ被害の事、そしてそれらからきた精神的な打撃であり崩壊である。
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全ての物事は人の捉え方によって大きく変わる。人には言い難い出来事も、境遇も、ウィークポイントも捉え方次第。そしてその捉え方ば周りから強要されるものではなく、自分で選択すると言う事が大切だ。周りからの押しつけはその人をさらなる闇に追い込むであろう。
そしてそれも必ずよく捉えないといけないというわけではない。
受け入れられないのであれば、受け入れられない自分を受け入れるのだ。私の貧乳はまさにそうだと思う。
私だめだよね。ではなく、私だめだよねって私は思ってるよねー。という事だ。
自分がだめな事だけでなくダメだと思っている自分を受け入れることで少し感覚が変わるように思う。
だめだよねとら思っている間はその問題に囚われている状態だ。
だめだよねと思っているよねという状態は少し客観視出来ており、次の解決策に進む準備ができる。コンプレックスが顔や体型なので有れば、じゃーどうすればいいか?と対策を講じることにもつながるかもしれない。
そこには整形もありだと思う。整形番組をみて、整形後生き生きとして過ごす人たちを見るとこれもありだなと思う。
同時に全身整形の友人もいる。彼女は常に整形をくりかえりしている。やりすぎると整形は癖になるのかもしれないし、依存を生む可能性がある。それは注意する必要があるだろう。
彼女の繰り返す整形も劣等感から来ていると思う。そしてすでに癖になり止まらない状態になっているように見てて感じる。同時に彼女にはお金があり、整形しさらに美しく変身する事がきっと幸せだ。本人の幸せなら周りがとやかく言うことは必要ではない。
何より本人が納得すればそれでいい。
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人間誰しも闇を抱えているという話をした。今はSNSを通して自分の作り出したい世界を作る事ができる。そしてそんな煌びやかに見える人たちにも闇があると思う。光があれば影がある。光には影があるのだ。
そんなある一面の煌びやかさを見て周りと比べるのではなく、昨日の自分の比べる事が理想だ。昨日の自分と比べるなら私たちの成長につながるのではないだろうか。