見出し画像

【シアターコモンズ'24】        私たちはイランのこども 私たちは  『Songs for No One– 誰のためでもない歌』をめぐって

ウルリケ・クラウトハイム(ゲーテ・インスティトゥート東京・文化部企画コーディネーター)
____________________

 暗転中から鳴り響く呼び出し音。鳴り続けても向こう側に誰も出ない……相手の登場をあきらめかけたころ、ついに、少年の陽気な声がペルシア語で聞こえてくる。舞台上に座るパフォーマーで、本作の演出も手掛けたナスタラン・ラザヴィ・ホラーサーニとの電話での親しげな会話。ペルシア語のわからない観客には、時々混ざる英語っぽい単語「ギター」や「オンライン」などしか伝わらない。
 ホラーサーニの背後には、ガラスでできた移動式の壁が2枚設置されている。「窓」にも「スクリーン」にもなるこの装置の片方に、ホラサーニが白いペンキを塗り始めると、ガラスはスクリーンに変わり、少年との会話が字幕として映る。ガラスに色を付けるというシンプルな行為によって観客が「傍聴者」になり、「理解者」の特権を得る。この冒頭のシーンには、本作の問題提起が、非常に効果的に落とし込まれている。つまり、媒体としての壁の役割と、「見える」「見えない」「理解する」「理解しない」の境界線が可視化され、出演者と観客の関係性が築かれるのだ。

©シアターコモンズ'24 / photo: Shun Sato

 シアター・コモンズ '24で日本初演を迎えた『Songs for No One– 誰のためでもない歌』では、6歳でイランからオランダに亡命した演出家兼パーフォーマーのナスタラン・ラザヴィ・ホラーサーニが、イランにいる二人の子供(11歳の女の子と13歳の男の子)への複数回にわたる電話インタビューを展開し、子供たちがおかれている状況に迫っていく。
 リスクを避けるために声のみで出演する通話の相手は、イスラム共和国という独裁政権下で不自由な生活を送っているはずの子供たちだが、陽気でコミュニケーションへの意欲が高く、関心ごとや趣味も自分の身近にいる若者と変わらない。ゲーム、ネット動画、アメリカのポップソングやディズニーに夢中の二人のティーンエイジャー。
 「そうか、イランの子供たちもシューティングゲームをするんだ」と少し驚いた自分が、早くもホラーサーニがこの作品で追及している「見える」「見えない」の関係性を体現する当事者となってしまっている。イランの子供たちは毎日締め付けの厳しいコーラン学校に通っていると想像していたかもしれない。だが、正直なところ、イランのティーンエイジャーの日常について、具体的なイメージがあまりなかったのだ。独裁政権によって外に伝わる情報が厳しく制限されてる中、イランの内情についてはブラックボックスに近い部分がある。海外で暮らしているホラーサーニこそが、イランに留まっている家族や友人たちとの繋がりを活かし、外部からはほぼ不可視なこの現実にアクセスし、イランの子供たちの日常と彼らの心境に窓を開ける存在となる。
 ホラーサーニが子供たちと親しい関係を築き、通話を繰り返す中で、会話の流れは自然に日常の中にある不自由、締めつけ、検閲に触れていく。子供二人は生活とほぼ一体化した検閲システムを当たり前に受け止めながら、さまざまな場面で工夫や勇気を活かして、小さな抵抗を展開し、ちょっとした自由を獲得する。例えば女の子が学校の道徳警察「ナージマ」にヘッドスカーフのかぶり方を指摘されるとスカーフをあえて緩めて落としたりとかして、学校の規律を挑発する。そのことを苦しそうな雰囲気で話すのではなく、プチ勝利を明るく喜ぶ様子がとても印象深い。一方で男の子:音楽好きの彼は通話中に世界的大ヒットを果たしたYNM Mellyのラップソング「Your Love is Suicidal」を見事に熱唱しながら、検閲の対象となる数々の単語を完璧に抜かす。弾圧や検閲に耐えることはイランの人々のアイデンティティの一部となっているが、この11歳と13歳のティーンエージャーはある意味チャーミングとしか言いようがない振る舞いで抜け道を見つけ出す。彼らの賢さと前向きな姿勢には、切実さと同時に大いに惹かれるものを感じる。最初の通話の場面が終わるとホラサーニが、私のような、独裁政権に抑圧された可哀そうな子供を想像した観客に、この歌をぶつけてくる。
 
私たちはイランの子ども 私たちは 
気をつけな、私たちがくる、
心配しな、私たちがくる
自分を守れ、私たちがくる
宝物をしまえ、私たちがくる
 
 ホラサーニが歌うと、歌詞が、後ろのガラス壁にグラフィティ風のアニメーションで、光る攻撃的なスタイルで映し出される。このクールなラップソングは、ホラーサーニの亡命先オランダの社会状況を踏まえつつ、これまでとは視点を180度変えて、ヨーロッパの観客にとってイランをはじめとする移民、つまり自分たちが、不安や脅威感の対象であることを明らかにする。
 一方で女の子のインタビューの最中にホラーサーニが自らの腕の下部分をピンク色のペンキで塗り始める。その意味は、後の男の子との会話で解明される。イスラム原理主義の政権下であるイラン国内で女性は家の外で腕や足の素肌を見せてはいけない。最近そのルールがネットでも徹底されているという。例えばネット動画に映っている女性がピンク色の半袖Tシャツを着ていれば、政府の協力者がCGを使って、ピンクの袖を手まで伸ばしロングスリーブに。このように女性の身体に対する抑圧がデジタル空間にまでも拡張されているそうだ。
 子供たちへのインタビューが進めば進むほど、体制による抑圧が生活の色々な場面でいかに人々の身体と精神に侵入していることがあぶり出されてゆく。ある通話で女の子がお家の部屋に飾ってある鏡の後ろに秘密の部屋あることを明かす。両親が違法に作った自家製ワインを保管する部屋だ。ある日、学校の友だちが遊びに来ると、同級生の一人が鏡の後ろを見せるように求めてくる。女の子は言い訳を思いつかず、パニック状態に陥る。11歳の子供が身近な友達にでも打ち解けることができない、精神的感情的孤立は想像しただけでもつらい。
 このように、子供たちのおかれた状況が少しずつ見えてくると同時にホラーサーニが自分の体を徐々にピンク色で塗りつくしていく。腕、顔、腹。彼女は舞台上にはいない子供たちに自らの体を貸し、身体が体制に奪われていくプロセスをアナログの舞台表現に置き換えて描くのだ。
 身体が塗りつぶされていく中で、表現および抵抗の手段として残されているのは声。インタビューの途中途中でホラーサーニが格好良く歌い上げるラップソングが「抵抗」として効果を果たしている要因の一つは、視点の流動性である。時には通話の相手となっている子供たちを代弁し、時にはヨーロッパ育ちである自身の背景を歌う姿に、さまざまな葛藤でつながっている複数の世界が同時に浮かび上がる。

©シアターコモンズ'24 / photo: Shun Sato

 インタビューの後半でホラーサーニが子供たちに未来像を聞く。二人ともアメリカのライフスタイルに強く惹かれており、男の子はビバリーヒルズの豪邸に住むような夢を描く。子供たちは海外への亡命以外、イランでの未来をあまり描けないそうだ。ただ、ヨーロッパでの生活環境について聞かれると、オランダにおけるレイシズムが話題になる。この子供たちの将来は果たしてどこにあるのだろうか。
 イランとヨーロッパ、二つの世界の摩擦、複雑に絡み合った両者のイメージを、ホラーサーニがシンプルかつ、互いの複雑な気持ちを緩和しない形で媒介しているのは、この作品の最も優れた要素といえる。6歳でイランからオランダに亡命したからこそ子供たちの状況に共感し、自身も「イランの子供」である気持ちをヨーロッパの甘くない現実とつなぐ。
 その効果を可能にするのは、ホラーサーニと二人の子供の間で築かれた信頼関係。子供たちは自分たちの心境を驚くほどフランクに話す。この信頼関係によってイランの現体制下にある子供たちの現状と未来に対する期待感は、ブラックボックスから姿を現し、西洋で広がりやすいレッテル、「可哀そう」、「危険」、「怖い」というイメージを大きく揺らし、日常のメディア環境のもとでは見えてこない、もう一つの現実を浮かび上がらせる。
 これはホラーサーニのような、国境のイランにまだ深い関係を持つ人にしかできない作業である。イランとヨーロッパの心境を行ったり来たりできる彼女は柔軟な視点を展開し、二つの世界を交差させる。作品の最後に響く歌。今回はホラーサーニが歌うのではなく、子供たち自身によるデュオが披露される。数年前からフルートを習っている女の子が吹く「白鳥の湖」の象徴的なメロデイーに合わせ、男の子がラップ風に11世紀のイランの詩人ウマル・ハイヤームの詩を朗読。

The world is worn out, my heart, do not be sad.
Sadness does not need you.
What was is now past, what never was shall never come.

 複数の学問で偉大な業績を残したハイヤームは政権交代によって抑圧を受け活動できなくなる。東洋と西洋の芸術の名作を引用しながら絶望感を表す、二人の子供の現実が凝縮された最後の演奏。と同時にスクリーンに映しだされたハイヤームの詩の文字がだんだん消えていく。今、観てきた世界はまた再び「No One」の領域に戻る。対話の続きは私たちの想像力にかかっている。

______________________
ウルリケ・クラウトハイム
ライプチヒ音楽・演劇大学でドラマトゥルギーを専攻。卒業後、劇場勤務を経て、テュービンゲン大学と同志社大学で日本語を学ぶ。愛知万博ドイツ館・文化担当、東京コンサーツ、フェスティバル/トーキョーで国際共同制作に携わった後、フリーランスとして活動。フェスティバル/トーキョー2014<映像特集「痛いところを突く――クリストフ・シュリンゲンジーフの社会的総合芸術」>などを手がける。16年より現職。23年から駐日欧州連合(EU)代表部の文化事業の企画・製作にも携わっている。

シアターコモンズ'24 ナスタラン・ラザヴィ・ホラーサーニ
https://theatercommons.tokyo/program/nastaran_razawi_khorasani/
※公演は終了しました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?