《転がる母に苔は生えないvol. 08》鬼の察しない力
我が家の子どもたちは 察してもらえない。
私は昔からわりと察することが得意で、
「あー、今これを言って欲しいんだろうな」とか、
「これやっといたら喜ばれるんだろうな」
とかがわかる方だ。
もちろん、これ自体はとてもいい能力で、
家庭や社会が円滑に回るのにとても役立つ。
厄介なのは、この、察して〜というのを
他人に求めるようになったとき。
察して〜って求められて
行動するのはなんとなく癪に触る。 笑
とうことで、
口に出して言って欲しい、 と常々思っていた。
子どもが生まれ、
ことばを話すようになった時、
表現しきれず泣いて騒いだり、
気持ちを押し通したくて、
ぐずぐずする子どもに、
「ことばで言いなさい!」 と叱っていた。
我ながら、
「酷だよな、、、ごめんね。
ママはわかってるんだけど、
ことばで伝えて欲しいのだよ。」
と心を鬼にして思っていた。
「そういう時にはこうやって言うんだよ」と
伝える言い方も教えてきた。
(今、娘がここ。
駄々をこねたい時ほど、 ことばが出ない)
息子の幼い時は、
母語を育てるのに必死だったので、
その後の事はあまり考えていなかったのだが、
インターに入ったころ、
鬼で良かったと思えるようになった。
"子ども自身がことばで伝える"
ということが身についていたからだ。
英語のようにローコンテクスト言語
(文化や状況に依存せず、
言語化してコミュニケーションをとる) で
察して〜が通用しない環境に入った時、
この力は非常に効果を発揮した。
急に第二言語で言語化するということは
困難であり簡単に身につくことではない。
「ことばで言わなければ誰にも伝わらない。
伝えなければ、ここで生きていくことができない。」
という状況になったけど、
どう言ったらいいかわからない、言えない、
黙ってしまう、 ということはなかったようだ。
そんな鬼のトレーニングのおかげか、
息子は、よく言われていた
「お話が上手ですね」
「言葉をたくさん知っていますね」
から、
「作文が上手ですね」
「表現力がありますね」
「論理的に考えられますね」
と言われるようになった。
察しない力が
子どものことばを育てた。
代償は、私も言わないと、
察してもらえない。