じぶん次第が一番難しい - tuとvousの話
フランス語には二人称、つまり英語の you にあたることばが二種類ある。tu と vous である。君とかあなたとかいう意味になり、一般的に tu はタメ口、vous は敬語での会話・文章で使うと習うと思う。
tu と vous の使い分けは日本人にとって難しい。私もなかなか苦戦した覚えがある。どっちを使っていいかわからないから一生懸命二人称が複数形になるようにして話したり(tu も複数形にすると vous になる)二人称のないフレーズに言い換えて話したり、涙ぐましい苦労もした。しかしそれも昔。近年ようやくわかったことがある。
Tuで話す?Vousで話す?日本人にとっての永遠の問い
日本人が tuと vous の使い分けに戸惑うのは、教科書で習うとおりタメ口・敬語という観念で tu と vous を使い分けようとするからだと思う。日本語のタメ口・敬語は主に対話相手に対して自分の年齢が上か下かで決まってくる。それをそのままフランス語の tu と vous に単純にあてはめようとすると、年上の人には vous、同いどしあるいはそれより年下の人には tu ということに、なる、単純に言うと。しかし実際はこんな方式はあんまり当てはまらない(もちろん接客やビジネス上での敬語は vous が使われるけど)。
ここで日本人ははたと立ち止まってしまうのだ。こんなに年上の人にタメ口で話すと生意気じゃないかな、とか、上司にタメ口はなんか逆にやりにくい、とか。学校や教科書で習った tu=タメ口、vous=敬語という方式のうえ、さらに日本人に根付いた道徳観や慣習も手伝って、だいたいの日本人が「あれ、ここは vousでいいのかな?いやむしろか tu を使うべきか・・・?」などといろんな場面で自問自答しては心の中で汗をかき、tu を選んでも vous を選んでも、会話のあいだ中居心地の悪さを感じたりするのである。
外国語の教科書というものはきっと、本来複雑極まりない言語というものを便宜上平たく平たーくせざるを得ないのだろうけども、このタメ口・敬語という分け方はやはり tu と vous の違いの本質をついてないと思う。ある人と tu で話したからといってその人に敬意をもって接していないことにはならないし、その逆もまた真で vous を用いながら相手を罵ることだってできる。
本当のTuと Vousの違い、それは相手との「距離」
じゃあ私の思う tu と vous の違いは何か、それは相手とどういう距離で接したいか、である。
たとえば友だちのホームパーティーで誰か初めて会う人がいたとする。こういう完全に私的でリラックスした状況で会ったこの人に対する二人称は、その人が何歳年上であろうと初対面であろうと、tu でだいたい間違いない。気楽な友達付き合いの中で出会った人にもし vous で話しかければ、相手が同世代であれば変な顔をするだろうし、年上の人であれば年寄扱いされていると相手は感じると思う。
これがちょっとかしこまったビジネスも含んだパーティーやフォーマルな場などであれば vous が無難である。業界や雰囲気や集まった人たちにもよるけれど、とりあえず vous で話し始めて打ち解けてきたら、tu で話してもいいかな?とか tu で話さない?と断りを入れてお互いに二人称を変えるのが一般的だと思う。
tu と vous の使い分けのカギは、敬語かどうかでも歳の差でもなく、相手をどういう距離に位置付けたいか、であると思う。
vous を使うべき場面、tu で話すべき人、と tu と vous の使い分けにまるで正解があるように考えてしまうから真面目な日本人は戸惑ってしまうけど、こういう風に考えれば、tu と vous の使い分けは自分が相手とどう付き合いたいかという大いに主観的な選択だからどっちだっていいのである。
ただ、上に書いたような友達同士のフランクなホームパーティーなどで vousを使うと下手したら「あなたと親しくするつもりはありません」という風にも解釈されうるし、丁寧に接するつもりが相手との距離を作ることにつながってしまうかもしれないから自由とはいえ要注意ではあるけれど。またそのあたりは下で詳しく。
会社ではどうか
フランスの企業では基本的にみんなTuで話すのがふつうである。研修生であろうが定年前のベテランさんであろうが、日常的に仕事を一緒にする間柄であればみんなお互いを tu で呼び合う。もしかしたら大きな企業などでは、めったに顔も見ないようなトップのトップには vous で話すかもしれない。でも基本的には上司にも tu。年齢の差、組織上の上下関係などは関係ない。役職の違いは、組織でのそれぞれの役割と責任(とそれに伴う給料の違い)にすぎず、組織上の上下関係イコール人間関係の上下ではないのだ、フランスでは。
私も最初は年上の人や上司に tu で話すことが苦手で、vousで話しては相手をびっくりさせ、「ちょっとやめてよ!tu でいいから!」と訂正されていた。ただ、ビッグボスにはみんな vousで話すんだな、などとそれぞれの会社でのやり方をその場その場で学んでいった。
vous も使いよう
前の会社の同僚がある上司に vous で話していることに気づいたことがある。20年近くも一緒に働く二人なのに、である。彼女以外、彼に対して vousで話す人は誰もいなかった。vous で話すんだねと彼女に話をふってみたところ、「そうよ、あんな奴に tu なんか使わないわ!」ということだった。つまり vous を使い続けることで意図的に距離を作り続け、あなたとこれ以上の仲になるつもりはないということを示してかれこれ20年だったのである。なかなか強烈な個性の持ち主の彼女だったので、上司の方からも軽々しくもう tu でいこうよ、とも提案しづらかったのかもしれない。わざとよそよそしさを演出したいなら vous を貫き通すのも手である。
あるいは自分に vous で話す部下に対してそれを訂正しないことでまた、「このままの適度な距離を保ちましょう」という上司側の姿勢を暗に示すこともできる。権威はときに孤独なものであるし威厳を保つにはその方がいいと考える人もいるし。
日本人にとってほんとうに難しいのは結局・・・
しかしやしかし。
tu と vous の本質的な違いは相手との距離にあるんだなと理解したところでさらにぶち当たる問題がある。あるいはこちらの問題のほうが日本人にとってはなかなか厄介かもしれない。
それはつまり、あらゆる人との関係性においてそれぞれに tu と vous を選んで使うということは取りも直さず、相手との関係性をじぶんのなかで最初から明確にすることを常に強いられるということである。この人とはこれで行こうという決定を、無意識的にいつも行うことを強いられるということだ。
日本語だと、誰か同一の人との会話内で敬語とタメ口をゆらゆらと行き来することもそんなに不自然でもない。特に意識せずに二つを混ぜて話すことも書くことも多々あると思う。あるいは、最初は敬語で話していたある人と親しくなる中でだんだんとタメ口に移行していくこともあると思う。マーブル状を様したり華麗なグラデーションを描いたりと、あいまいな日本のあいまいな言語日本語だとあらゆるミックスが可能である。
ひととの関係性を最初からハッキリパッキリさせるのは、なんかこう、日本的ではない気がする。日本語で思考する私たちはもっと、ぼかしたりほのめかしたり察したり以心伝心をはかったり、さらには言わないことによって言わんとすることを伝えるという世界的にみたら離れ業ともいえる技をも使いこなす。はっきりさせないことにおいてはエキスパートなのだ。
だってメリハリの国フランス
ところがフランス語ではこの敬語からタメ口へのグラデーションは見られない。vous から tu への移行があるならば、それは「tu で話そうよ」という宣言のもとにくっきりぱっきりと行われる。
私は最初これがなんだかこっ恥ずかしかった。突然の仲良し宣言のようで照れ臭かった。今思えば照れるようなことはなんにもないんだが。が昔は奥ゆかしさが足りない(というか全くない)気がしたし、とにかくそういうのに慣れていなかったんだと思う。
結局のところ、一番日本人にとって難易度が高いのはこのあたりではないか。tu と vous の使い分けに私たちが苦戦するのは、実は tu と vous の用法的な側面でなく、もっと奥底の、あいまいな言語で形成された日本人の文化的な性格のせいかもしれない。