要請と強制のあいだ~イギリスの場合
最近、隣のイタリア人一家の奥さんが何か念仏のような呪文のようなものを唱えているのが聞こえる。この状況だから、祈祷か何かなのだろうか。それとも普段から唱えているけれど、最近、自分の在宅時間が長いから気づいただけなのだろうか。
そう言えば鳥のさえずりも最近よく聞こえる。人間の活動が弱まったから鳥がそのぶん元気なのだろうか。それとも普段からさえずっているけど、最近、自分の在宅時間が多いから気づいただけなのだろうか。
それとも単純に春が来た、というだけのことなのだろうか。
今、ロンドンはもう「夏時間」になっている。日が長くなった。天気もすこぶる良い。でも取材の時と、食料品の買い出し以外はほとんど外には出ない。外出制限がかかっているからだ。
「不要不急の外出」を政府が禁じてから2週間が経過した。
・食料や薬を買いに行く
・医療機関への通院
・1日1回の運動
・どうしても必要な通勤
この4つの理由であれば外出できるが、それでも2メートルのソーシャル・ディスタンスをとるべし。
我々報道機関は例外として外での取材や長距離の移動が認められているが、それでも必要最小限の外出に留めている。取材相手とは2メートル離れる。
街では、日本の「緊急事態」と同様、公共交通機関は動いている。ス―パー、薬局も当然やっている。へえ、と思うのは自転車屋さんがOKなこと。
レストランはテイクアウトとデリバリー以外はダメ。理髪店・美容院もダメ。長髪になるかも。ライブハウスは基本ダメだけど2メートル距離をとった上での少人数によるライブストリーミングはOK。
今や当局は違反する店を強制的に閉じることができる。警察も外出制限に違反する人に対して注意し、家に帰るよう命じ、それでもダメなら罰金を科すことができる。強制力というやつだ。
でも、最初からこうだったわけではない。だんだんこうなったのだ。最初は日本の「緊急事態」と同様、「要請」だけだった。
もうかなり前のような気がする。
3月16日、ジョンソン首相は、「パブやレストラン、劇場、クラブといった場所は避けてほしい」と国民に対して求めた。これを受けて「商売にならない」と判断したパブやレストランや劇場は店を閉めた。でも、すぐに結果が出るわけはないので感染数も死者も毎日増える。一方で、開いているパブに行く人たちもまだまだいた。
20日、ジョンソン首相は「パブやレストラン、劇場、クラブといった店は閉じるよう要請する」と一段階厳しくした。金曜日だったので「きょう、夜遊びに出ようと思っている人たちもいると思うが、やめてほしい」と釘を刺した。
その夜、ロンドン中心部に取材に出てみた。
(くどいようだが報道機関は仕事での外出が許可されている)
午後9時30分。ほとんどの人は政府の要請に従っていて、街はとっても静かだ。ロンドンなのにさびれた地方都市の夜ぐらいの人の量。名物二階建ての赤いバスは稼働しているが、乗客はいても数人。ほぼ幽霊バスだ。
と、オックスフォード・サーカスのそばで「これからバーに行く」という若い男女に会った。
「ボリス(ジョンソン首相)が今夜が最後だからって言ってたからさ。今夜を逃しちゃだめだと思って」
―いや、ボリスは今夜からもう夜遊びするなって言ってたはずですよ。
「いや、今日が最後だって言ってたはずだよ」
首相のメッセージは伝わり切っていなかった。きっと直接スピーチを見ていないんだろう。
男性はロンドン・ブリッジのあたりの飲食店に勤めていたが、解雇されたそうだ。女性は韓国料理店で働いていたが、休業を強いられている。ともにコロナウイルスの影響だ。飲みにでも行かないとね、という雰囲気だった。
バー、開いてるかな、と問うと、まあ、行ってみるよ、ダメだったら空っぽのピカデリー・サーカスを楽しむよ、と言って去って行った。
ちょっと歩いて、繁華街ソーホー。カーナビー通りから曲がった筋ではパブが2つほどまだ開いていて、それぞれそれなりに客もいる。ここでも首相のメッセージが伝わり切っていないんだな、などと思っていると、角度によってはイニエスタにちょっと似ている店員が外看板を片付けながら話しかけてきて、「明日から最低3週間は休業だよ。でも人々のためだからね。安全と健康と、そういうこと」と、達観したように口にした。
そして、この2つのパブ以外は静まり返っている。異様だ。普段なら金曜日の夜、人がぶつかるように歩いている場所なのに。
普段は予約を受け付けず、並ばないと入れない人気のインド料理店。店内での営業は止めている。外で撮影していると、中からスタッフが出てきた。寒いのにTシャツだよ。ピッタリめの。
―普段だったら賑わってる時間ですよね
「もちろん。店の外まで行列なのにね。我々、最近、デリバルーと契約したんだ」
「デリバルー」は、レストラン宅配業者の1つ。自転車やバイクでギグ・エコノミーの人たちが配達する。
確かに店の前にはデリバルーの配達員が自転車やバイクで次々やってきては商品を受け取って出発していった。こうして、許可されているデリバリ―スタイル中心に切り替える店もたくさんある。この夜、街で最も目立ったのは、こうしたフード・デリバリーの自転車やバイクだった。
それでも割に合わないと判断すれば、閉めるしかない。そして、バーに行く、と言っていた男女のような従業員は、解雇されるか、長期の休みを取らざるを得ない。
イギリス政府は飲食店や娯楽施設など、もろに影響を受ける事業者に対して「雇用を維持するなら休業させている従業員の基本月給の8割は補填する」というスキームを打ち出した。なかなか思い切ったことをする。これで首がつながった人も多いだろう。事業主自身には無利子のローンや、事業規模の小ささによっては助成金も用意された。フリーランスの人も過去3か月の平均月収の8割が助成される。こうした対応策が実際にどれくらいの効力を持つのかは、もう少し経ってみないとわからないけど。
ピッタリTシャツのスタッフのスマホがピン!と鳴る。「お、また注文だ。じゃ!」と言って、彼は店に戻って行った。
インド料理店の数軒隣の、ブルースのジャムセッションが売りのバーも休業していた。「5月に再開したいと思っています」と張り紙がしてあった。こんな時こそブルースなのにね。そう言えばネット上でカナダのミュージシャンが「スーパー行ってもトイレットペーパー買えなかった~」と歌っていたのを見た。“COVID19ブルース“だそうだ。チャーリー・パットンをはじめ多くのブルースマンが1927年のミシシッピ大洪水から曲を作ったように、このパンデミックも多くのミュージシャンをインスパイアしているんだろう。実際、現代のストーリーテラーであるラッパーたちがCOVIDネタでフリースタイルしている動画もこれまたネット上にあふれている。
話がそれた。
その後、周辺を徘徊してみたが、外食客でいっぱいのはずのチャイナタウンも、ミュージカル帰りの客と、それを目当てにした自転車タクシーでいっぱいのはずのウェストエンドも、ほぼゴーストタウンだった。
ところが週末、天気が良かったこともあって、人々はオープンスペースに繰り出した。ロンドン南西部、鹿が放たれている巨大なリッチモンド・パークがサイクリストでごった返したのを筆頭に、各地の行楽地で人が増えているのが報告された。
これが問題視されたこともあって週明け23日の夕方、ジョンソン首相は「You must stay home」(家にいなくてはならない)と、もう一段、いや、二段、ギアを上げた。例の「外出可能な4つの場合」が示されたのもこの時だ。同居していない家族に会いに行ってはならない。友達にも会いに行ってはならない。結婚式もダメ。葬式はOKだけど、同居しない家族は2メートル離れているべし。警察は従わない人たちに対する強制力を持つことになる・・・。
翌日、中心部に行くと、さらに人は減っていた。ハイド・パークには散歩やジョギングをしている人たちがそこそこいたが、みな、決まりを守っているように見えた。女性二人組は「いつもは三人なんだけど、今日は二人で来ました。一人は家にいるの」と話した。同居家族以外は3人以上集まってはいけないことになっているからだ。
さらにその翌日の25日、「コロナウイルス法」が成立して警察が罰金などを科すことができるようになった。日本の「緊急事態」と同様の「要請ベース」から、明らかにフェーズが変わったのだった。
それでも一部では「ルール」と「人々」のせめぎ合いは続く。ある大手のスポーツ用品量販店のトップは「我々は人々が自宅にいながら健康でいるためのグッズを多く扱っている。だから営業を続けられるはずだ」と主張、剛腕系のゴーヴ内閣府担当相にあっけなくダメ出しされた。
中部ダービーシャーの警察はドローンでピークディストリクト国立公園を歩いている人たちを撮影。個人を特定できるようなやり方はしなかったが、それぞれに「国立公園で犬の散歩・・・不要不急」「インスタ映えスポットに寄り道・・・不要不急」などと字幕をつけてツイッターで公開したところ、「やりすぎだ」「(撮影された人たちは)2メートルのソーシャル・ディスタンスを守っていたじゃないか」といった批判が殺到した。
週末になると、警察が公園や浜辺で日光浴をしている人たちに話しかけて家に帰るよう指示する様子がテレビで流れた。日光浴は「不要不急」であり、「運動」でないのは確かだが、理論上は、他人から2メートル離れているぶんにはいいじゃないか、というのも成立する気はする。
が、ハンコック保健相は、「従わない人がいるのであれば、現在許可されている一日一度の外での運動も禁止する」と脅した。
そうこうしているうちに2週間が経った。この間、ジョンソン首相の感染が判明し、これを書いている時点では集中治療室にいる。来週になれば、外出禁止措置の見直しタイミングに設定されている3週間が過ぎたことになる。4月7日の会見で政府首席科学顧問は新規に判明する感染者の数が指数関数的な上昇ではなくステディな上昇に“留まっている”ことから「ソーシャル・ディスタンシングなどの効果が出始めている可能性がある」と述べつつ「あと1週間ぐらいすればもっと見えてくる」と語った。
たぶん、何らかの傾向は見えてくるんだろうと思う。外出制限がどれだけ効いてきているか。要請と強制にどれだけ違いがあったか。
そして、その先のことも少しは見えてくるんだろうか。
けさも隣のイタリア人一家の奥さんが唱える念仏のような呪文のような何かが聞こえる。鳥のさえずりも聞こえる。
春は確かに来たけど、「完全な形での」春は、どこか遠くに感じる。
ロンドン支局長 秌場 聖治
報道局社会部、各種の報道番組、ロンドン支局、中東支局長、外信部デスクを経て現職。音楽好き。ドラマー。去年見たライブで良かったのはFontaines D.C.とIbibio Sound Machine。 今年はコロナでまだ行けず。