わかったり
あたまのなかを起きてすぐ書き出すというワークを知って、それをやらず、電車の中で書こうと思ったら、なるほどこの短い時間の間に物事が溢れていて自分の中の言葉や問題をただこぼすということができなくなるのだとわかった。
「モーニングノート」とかというらしい。
夜に日記を書くことはしたことがあったが、起き抜けにそれをしようと思ったことはなかった。
だが、それを起き抜けにできるような暮らしを求めているのだとわかった。
住居から2時間弱の場所に親が住んでいる。
親はコロナもあり遠出ができなくなった。実家に移り住もうか迷っている。親を連れて少しは遠くへなにをかを見に、触れに行けるのはあと少しの時間だろう。それを思えば今まで疎かにしてきたそれを今せずいつするというのだろう。しかし親元に戻るというのはなにかと気がひける。私はニートにはなりたくないのだ。戻っただけではニートにならない。理由をつけてまだ迷いたいだけだ。自分がああいえばコーユーだとわかった。
親はお金を入れなくていいと言っている。入れなくていいと言われても入れるべきだが、その分を貯蓄してむしろ将来に備えてくれと言われた。たかがしれた私の賃金。どちらにしても家賃より金額を下げれば私のしたい起き抜けにノートになにをかを書く暮らしができそうである。それってつまり働く時間を減らすということである。備えは備わらない。結局、何をとるかだとわかった。
生きているとおおよそのことには優先順位をつけて選択をしなければならない。毎日は選択の連続である。どんな本にも書いてありそうなことだがこれが非常に億劫だ。即選択できず様々なことを分析して天秤にかけては結局のところ最後には直感ですべてを選んでいる私は、自分が何者になりたいのか何者なのか何者になりうるのかがわからないことがわかった。
こんなにいろいろとわかっているのに何者かがわからない。何者かわからない成人なんてまともじゃない気がしてしまう。
では、まともである成人とは、大人とは、いったい誰か。まともとはどういう定義で使われる言葉か。まともとはなにか。
さらにいえば、言葉に当てはまることが正義か。
正義になる必要があるか。
正義こそなにか。
なにか、である必要があるか。
「何者」は「なにか」に変わってしまった。
流動的な生き物。その言葉と言葉の印象はだいぶ変わる。
生きれば生きるほどわかっていたつもりのことがわからなくなっていく。
ただ、それが人生だということはなんとなくわかった。
わからなくなることを不穏にとらえず、それを多角的に考えて見ることをして誰かの日々の何かに役立てば幸運だ。
役に立たなくてもいいか。幸運も、まあいいか。
わかることをよしとせず、幸運だったらラッキーで。
2021年10月26日(火)7:05