竹との邂逅
動機というより、それは衝動に近かった。
あれは今から6年前、39歳になりたての私は、半ば衝動的に、竹の世界に足を踏み入れた。
大分県立竹工芸訓練センター。
日本唯一の竹細工に特化した職業訓練校に、私は入校した。
選考の面接では、それらしい「動機」を並べ立てたものの、そんなのすべてヨソユキに飾り立てた綺麗事で、実感としては、言語以前の「衝動」に近いものだった。言葉にならない、擬音のような、身体の叫びのような何かに、突き上げられただけだった。
しかし周りはさぞかし驚いただろう。
3人の子どもがいて、転職を繰り返し、家のローンも残っていて、今まで手仕事に関わったためしもない、39歳の私が、突如として竹細工の世界に足を踏み入れたのだから。
「なんでまた竹?」
何か重大な選択を迫られたとき、理由を欲しがる人は多い。理由がないと、自分も人も説得ができない。説得ができないと、決断ができない。決断ができないと、動けない。いくつもの関門が連なる感じ。がんじがらめの八方塞がり。仕方がない、やめておこう、となる。
でも私はこの「段階を追う」その冷静さに、えも言われぬ「怪しさ」を感じた。いざ人が動くときに、理由や説得や決断が介在する余地なんてあるだろうか。
少なくとも、私にはなかった。
理由も説得も決断もすっ飛ばして、ハローワークへと走り願書を提出し、選考試験を受けてパスし、私の竹細工ライフはなし崩し的にスタートした。
これは果たして「自分で選んだ」と言えるだろうか。
ありていに言って、甚だ怪しい。
自分で動き出した以上、ハタから見たらこれは見紛うことなき「自己選択」だろう。でも、私にはその自信がない。「自己」も怪しいが、「選択」はなおのこと怪しい。「自己」とは言い切れない、ぼやっとした“何か”による、「選択」とも言い切れない、ぬるっとした“何か”。
だが一方で、これは、私が選んだのだ。
ぼやっとしてようが、ぬるっとしてようが、名状しがたい“何か”であろうが、半ば力技でそれを「自分で選んだ」と受け止めること。それによって覚悟や責任が芽生え、私の身体に力と光が宿る。他でもない、その覚悟と責任、力と光が、私の生を支えてくれるはず。
そう信じた私は、甚だ怪しい実情や実感は一旦脇に置き、「自分で選んだ」と割り切って竹細工を1年学び、その後「房総竹部」という活動をスタートした。そして気がつけば5年が過ぎ、あれよあれよという間に日本中に竹細工を伝えに行くようになり、それが私の「生業」となった。
生計を立てるだけではない。
それは、この乱世を生き延びていく上で必要な、技術と関係を深めてくれる、私を生かす「生業」だ。そのおかげで、しっかり生計は立てつつ、誰もそうそう真似できない技術を身につけながら、日本中に竹仲間が増えて行っている。こんな素晴らしい生業があり得るなど、想像だにしていなかった。
「自分で選んだ」と割り切ること。
一方で、「衝動的に動いた」という当時の実感も隠蔽せずに保ち続けること。
そしてその二つをなるべくつつがなく共生させ、背負いつつも、背負い過ぎないこと。
そんな絶妙なバランスの上に、私の生業はギリギリ成り立っている。
でもどうやらこれは難しいらしい。
「自分で選んだ」は責任が重いし、「衝動的に動いた」は無責任が怖い。
だからなるべく「誰かが選んでくれた」ことにしたい。そうすれば、責任も無責任も負わなくて済む。責任も無責任も「誰か」が代わりに背負ってくれる。運良く上手くいけば、手柄だけを掠め取ることだってできる。
でも私には無理だった。
すでに書いた通り、「誰かが選んでくれた」では私の身体に力と光が宿らない。そんな力なき光なき身体で生き抜けるほど、この乱世は甘くはないはずだ。
「天職」と「責任」
一見不可解で言葉にならない衝動だって、位相を変えれば、此岸と彼岸のコール&レスポンスかもしれない。案外そんな「責任の取り方」もあるのかもしれない。
少なくとも私は、そう思いながら日々を生きている。