39歳父の竹修行奮闘記 第五回「“竹を割ったよう”には割れてくれない竹」
入校してはや一ヶ月(現在通っている訓練校についてはコチラを参照)。まず学ぶのは、竹細工の肝ともいえるひご取り(竹ひご作り)!
ひご(籤)は、竹を細く割って削ったもの。籠 (かご) や提灯 (ちょうちん) の骨などに使う。竹ひご。
ひご取りと一言で言っても、大きく分けて①割り②剥ぎ③幅取り④面取り⑤うらすきと5つの工程があり、「ひご取り3年」といわれるほど奥の深い仕事。ひご取りをしっかり会得しないまま編組(へんそ:つまりひごを使って編んでいく工程)へ進むと、うまく形にならなかったり、途中でひごが折れてしまったりしてしまうらしく、とにかくひご取りは仕上がりに大きく影響する(らしい)。
自分に刃を向ける竹割り
ひご取りで最初にするのが割り。読んで字の如し、筒状の竹を割っていく。そこでまず頭に浮かぶのが、この慣用句。
竹を割ったよう《竹は一直線に割れるところから》気性のさっぱりしているさま。「竹を割ったような性格の人」
まず竹は一直線に生えてるイメージがある。しかも割ったら、一直線に割れるイメージがある。しかし竹を割り剥ぎしたことがある人ならみんな知っている。
まるで一直線じゃないじゃないか(泣)
まず竹自体が、もちろん個体差はあるものの、生えている状態ですでにだいぶ曲がっている。また節ごとに一定の規則でジグザグと曲がっているのも特徴。しかも割ろうとすると、節ごとに繊維が複雑に曲がりくねっているので、まっすぐ割れない。
元々まっすぐではなく、まっすぐには割れてくれない竹を、まっすぐに割るには、そう、技術が必要だ。
では具体的な割り方をば。筒状の長い竹を取りたいひごの長さにのこぎりで切りそろえて、竹割り包丁という道具を使って、取りたいひごの幅に割っていく。
竹割り包丁(市販品)
非常に危険なことに、竹を割るときは包丁を自分の方に向けて使う。これが慣れるまでは怖くて仕方がない。ジャパニーズHARAKIRI的なスリリングさを欧米人は喜んでくれるかもしれないが、ジャパニーズの私も普通に怖い。
見ての通り、訓練校では入校してしばらくは左手のみ手袋の着用が義務付けられている。まず初心者が一番怪我をしやすいポイントだ。コツとしては、とにかく右手の脇をしっかり締めて、あるところ以上に包丁が入らないようにすること。こう書くと簡単そうだが、特に節(フシ)を超える場合、ある程度の勢いがないと割れないため、気が付くと脇が空いていて、勢い余って左手に刃が直撃なんて事故も今まで何度となく起きているそう。怪我と隣合わせの竹細工。刃物を使う以上は当たり前だが、私も気をつけねば。
竹との対話を楽しむ
実際に竹を割り剥ぎしてみるとすぐに分かるが、竹ごとに刃を入れた時の感触、割れ方、音、表面の凹凸、色味などなどが全く違う。たとえ同じ一本の竹であっても、元(モト)の方と末(ウラ)の方では硬さも厚さもまるで違う。
元(モト)竹の地面に近い側のこと。
末(ウラ)竹の地面から遠い側のこと。
つまり、ある竹に包丁を入れたその瞬間が、その竹とのファーストコンタクト、唯一無二のその竹との対話が始まる。包丁を入れながら指先から竹のかぼそい声に耳を傾ける。竹の声を無視すると竹は言うことを聞いてくれない。わかりやすく反撥する。特に新子竹(シンコダケ)と呼ばれる、生えてから2年以下の竹は、とにかくネバいので、慎重に作業を進めないと、すぐに折れたり割れたり、特に技術がない初心者は悪戦苦闘の連続だ。
ネバい 割り剥ぎしにくい。
でもこの竹との対話が、手仕事の醍醐味でもあり、たまらなく楽しい。五感をフルに活用しながら微調整を繰り返していく感覚は、私のような初心者にとっては綱渡りさながらだが、経験を積むにつれて少しずつ渡る綱の幅は広くなっていくに違いない。たとえば針に糸を通す仕事に熟練していく過程は、きっと主観的には糸の太さはそのままに針の穴が大きくなっていく現象として出来して、それが穴の大きさが一定にしか見えない他者には熟練と映る、というようなものではなかろうか。
プロの仕事は、「量より質」じゃない、「質より量」だ。量が質を担保する。
ある私の友人がこう喝破していたが、その意味が今はよく分かる。バランスを崩そうが、落下しようが、ぶら下がろうが、ゆっくりであろうが、前進と後退を続けようが、とにかく綱を渡りつづけることでしか、私の綱の幅は広くなっていかない。センスや適性の有無は、綱をスタスタと渡れるようになってからしか見えてこないし、センスや適性がなかったら綱を渡る資格がないわけでもない。というか現代においては、綱を渡りつづけられるだけで十分にセンスと適性は備えている。
何かを積み上げるということが軽視されがちな昨今、かくいう私も転職7回という経歴が全てを物語っている通り、腰をすえて何かを継続することが非常に苦手。でもそんな堪え性の無い私だからこそ、心から「積み上げていきたい」と思えることとの出会いはとにかく得がたい。だから大事にしないといけない。もし奇跡的に出会えたら、後はなんのことはない毎日必死に積み上げるだけだ。
竹はいつも違う。同じ竹も水に漬けるだけで表情が変わる。ふはは、飽き性の私が積み上げるにはもってこいではないか。安定や均一性を求める人にはオススメできないが、私には今のところしっくり来ている。身体さえ壊さなければ続けていける予感がある。
さあ竹が割れた。いよいよ次回は剥ぎだ。同じく竹割り包丁を使って、割った竹を薄く剥いでいく。これが本当に手ごわい。職人技となるともはや魔法の域だ。魔法だってきっと呪文を唱え続けないと魔法にはならない。