誰が私を支えてくれるのか
豆腐を売りまくってた10年前
今から10年くらい前、豆腐の移動販売の仕事をしてた。
絹、木綿、寄せ、厚揚げ、がんも、ゆば、豆乳、おから、などなど、軽の冷蔵車に豆腐関係の商品をたくさん積んで、決まった5エリアを週一で回る仕事。もちろんパ〜プ〜とラッパを鳴らしながら。
給料は基本給があって、1日売り上げの平均が五万を超えたところからコミッション(つまり出来高)が発生するので、やればやっただけ稼げる仕事だった。
販売員としてデビューしてしばらくは順調に売り上げを伸ばしたが、数ヶ月で売り上げは下降線に。売り上げは下がっていくのに、忙しさは変わらない。
このままではマズイと思い、敏腕販売員だった副所長に相談したところ、
「うちの客じゃない家は、回らなくていいよ」
結果としてこの一言が大きな転機となった。
なぜ売り上げが下がっていくのに、忙しいままなのか。それは「定期的ではないけどたまに買う客」を健気に大事にして、毎週回っていたせいだった。私が販売員になる前から買ってる客である以上、こちらから「切る」という選択肢は封じられている、と思い込んでいたところに、
「切っていい」
という言葉をもらえたのが大きかった。
そこからはマインドを切り替えて、「不定期にしか買わない客は私の生活を支えてくれてない」と割り切り、片っ端から回るのをやめ、それによって空いた時間に「活動(つまり営業、インターホン押して買ってもらう)」をひたすらやった。
不思議なことに、精一杯回る客を減らしても、なかなか時間が捻出できない。時間の尊さを痛感し、昼休憩は15分ほどで切り上げ、とにかく「活動」に明け暮れた。
幸いにも結果は付いてきた。
売り上げは順調に上がっていき、入社1年で売り上げ全営業所1位にまで上り詰めた。当時は月商が200万を超えていた。豆腐の移動販売での売り上げとしては、今となっては想像し難い金額だが、とにかく走り回ってインターホン押しまくって、その日の売り上げを作ることに必死だった。
そして入社1年1ヶ月で辞めた。
得るものは得た、という実感と、この働き方は続かない、という危機感で、これ以上続ける意味はないと判断しての決断だった。
切らないと空かない
今思えば、あのたった1年1ヶ月の経験が今の私を強力に支えてくれていることに気づく。
「うちの客じゃない家は、回らなくていいよ」
という上司からの助言を受けての
「不定期にしか買わない客は私の生活を支えてくれてない」
という気づき。
納得した私は、肌感覚を頼りにかつての「客」を片っ端から切り、それによって空いた時間を使って「活動」をしたのだった。
ただがむしゃらに走り回るのではなく、がむしゃらに走り回るための時間の捻出(優先順位付けと取捨選択)をまずやったことが大きかった。
これ続けてたら死ぬ
私を支えてくれない人に時間を費やしていたら、その先に待っているのは死である。
とこう書くと「何をそんな大袈裟な」と思われるかもしれないが、殊、個人事業主にとっては、「時間の使い方」が全てと言っても過言でないほど死活的に大事で、「これ続けてたら死ぬ」という強い危機感が私には常にある。
ではどのように時間を使うのか。
「私を支えてくれている」と心底実感できる人に対して優先的に時間を使うのである。
それはつまり「相思相愛的」あるいは「お互い様的」な、フェアでニュートラルで双方向的な関係を志向する、ということに他ならない。
ある人が私を「支えてくれていない」と判断する際の基準として私が考えているのが、「優先順位の非対称性」である。それはつまり、
「私はあなたを優先しない。でもあなたは私を優先せよ。」
というメッセージだ。
そんなクレーマーみたいなアンフェアなこと思う人がいるのか,と訝しがる向きもあるかもしれないが、これは私も含め、「消費者」としてはスタンダードな振る舞いだ。そういう意味では、「消費者」は程度の差こそあれ、すべからく「クレーマー」である。
例えば一度も行ったことがない飲食店に行ってみたら満席で入れなかった。定休日で閉まってた。一見さんお断りだった。とする。
「なんだよ!こっちは腹減ってるのに!」
先ほどの「優先順位の非対称性」はこうして起きる。私はその店を全く支えていない以上、その店が私を優先する理由は全くないにも関わらず、自らが「消費者である」という根拠なき根拠のみを盾にして、相手に対して「こちらを優先せよ」と迫るのだ。
そうした「消費者仕草」が染みついたままで、人と関係を築くのは、有体に言って不可能である。むしろそれは「反関係」とも言えるほどに、関係を断ち切る方向に作用する振る舞いであって、信頼し合える「関係」からは最も遠い。
支え合える人を増やす
「支えてくれない人」なんて周囲に何人いたところで無意味で、むしろ理不尽な要求をしてきたり、都合よく利用しようとしてきたり、生き延びるためにはむしろマイナスでしかない。
政府すらも「支えてくれない」この乱世を生き延びるためには、相思相愛的、お互い様的な、本当に支え合える「関係」を、時間をかけて丹念に築いて行くしかない。
その過程においては、「支えてくれそう」と判断して近づいた人からひどい扱いを受けて「支えてくれない」と思い直して距離を取る、ということが繰り返し起きる。ここで距離を取っておかないと、時間が飽和状態となって、潜在的に「支え合える人」との出会いがそもそも起こらない。それは「たまに買う客」を回るだけで忙しかった豆腐の移動販売員の頃と同型的で、新たな取り組みのための精神的、時間的隙間を捻出しない限り、「空転的多忙」に浮身をやつすことになりかねない。
死ぬまで会社員?
死ぬまで会社員でいるならば、「空転的多忙」で日銭を稼いで糊口をしのぐことも可能だろう。
だが定年がある以上、そしてこの国では悠々自適で豊かな老後など全く保証されていない以上、誰しもが「個人事業主」的なマインドを持っておく必要があると私は考える。
先述の通り、信頼し合える関係を築くには、定期的に会っていたとしても時間がかかる。そのためには体力も精神力も必要だ。現実の関係は、マッチングアプリのようにインスタントにはいかない。
「空転的多忙」の渦の中で定年まで働いた人に、そうした時間や精神力や体力が残されているなんて、見通しが随分と楽観的過ぎやしないか。
いずれ迎える死に向かって、せめて死ぬまで生き生きと生きられるように。
そのための礎となる、「信頼し合える関係」をあくまで個人として、今から。
それ以外に優先すべきことなんてないはずだ、本当は。