「わかった」の多義性
中国語を学ぶと、日本語の「わかった」の意味の多さに気づく。中国語は「わかった」を細かく分けるからだ。(以下のポスト参照)
言語間で優劣を付けるのは野暮な話ではあるけれど、言語が社会や関係を作るという側面は確実にある。いささか乱暴かもしれないが、日本社会の病理は、日本語に端を発している、というのが私の見立てだ。
様々にレベルや位相や内容の違う「わかった」を、ひとつの「わかった」に押し込んでしまっていることが、実は「誤解」の元であるにも関わらず、双方が言語的に「わかった」を一つしか持っていないせいで、それが自覚されたり、顕在化したりすることがないのではないか。
そして、その「わかった」の多義性が引き起こす「誤解」こそが、蟠りやモヤモヤや不信、ひいては社会全体に漂う重苦しい空気の大きな原因になっているのではないか。
「外国語なんてツールだからね」
「AIがあれば外国語なんて学ばなくていいのでは」
違う。断じて違う。
外国語を学ばないと見えてこない「母語の姿」があるのだ。そして外から母語を見ることはとりもなおさず、社会や常識や関係といった、その自明さのせいで極めて対象化が難しい事象を、「外から見る」ということに他ならない。
言語を甘く見ないほうがいい。
他でもない言語が、我々の目に映る景色や、我々の脳に湧き起こる感覚や感情や、我々の身の回りに起こる事象を文節する以上、我々は言語によって規定されていると言っても過言ではない。
我々とは全く別のやり方で、景色や感覚や感情や事象を分け、やり取りしている人たちがいると言う現実を、「知道(zhīdao 情報として分かる)」ではなく、「体会(tǐhùi 身に染みてよく分かる)」するには、やはり外国語を学ぶしかない。
「わかった」だろうか。
その場合の「わかった」は、どんな「わかった」だろうか。