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台湾ドラマ「聽海湧(邦題「海の音色」)」を観て

竹を学ぶために台湾に来ている。

ここ二晩連続で、「聽海湧(放題「海の音色」)というドラマ(全5話)を台湾朋友であるAyaに誘われて共に観た。先月台湾で放映されたばかりの新しい作品だ。日本では今のところ視聴できない。

時は太平洋戦争終戦前、舞台は北ボルネオ島の捕虜収容所。

主人公は、台湾から「日本人」として従軍した、3兄弟(新海暁、新海志遠、新海木徳)。

舞台となる捕虜収容所で発生した、捕虜の大量虐殺事件をめぐって、戦後オーストラリアによって裁判が開かれ、真相が明らかになっていく。殺したのは誰だ。なぜ殺したのか。

戦争とは。暴力とは。国籍とは。法とは。責任とは。

そして人間とは。

全5話の半分以上のシーンは日本語で、そこは字幕なしで大丈夫な「日本人」である私は、観ながらずっとそうしたことを考えていた。脚本がそうした問題を非常に深いレベルで投げかけていた。善か悪か、クリアカットに断ずることのできない、それぞれの「正しさ」と、その「正しさ」から自然発生する「暴力」を、見事に描き出していた。

戦争は終わっていない。

だから「終戦」などという欺瞞によって終わったことにするのではなく、考え続けなければ、蟠り続けなければならない。それが「戦後」を生き、今を「戦前」にしないために、唯一できることだ。

そうした意味で、今回Ayaが、「日本人」である私に、「一緒に観よう」と誘ってくれたこと、実際に共にこの作品を観たこと、そしてその後あれこれとお互いの考えや思いをやりとりできたこと、それらの意義の大きさを感じる。

国境や属性や立場に関係なく、個人どうしが関係を築くこと。

それこそが戦争を回避する唯一の道であり、かつてに比べ格段に国境の壁が低くなった今なら、少しずつでもそうした営みを続けることができるのではないか。

とはいえ国境の壁は相変わらず高い。各国で先鋭的な右派が台頭し、ヘイトが跋扈している。

それでも安易な自国礼賛の言説に流されず、国内国外問わず、個人どうしの関係を一歩ずつ深めていくこと、それ以外に、現在の数ある問題を解決する糸口が私には思いつかないから、私は私なりの方法でそれを実践する。

いい時間だった。

癒しや快楽とはかけ離れた、緊張感に満ちた、そこにいる人全員に思考と内省を促す時間。

私だったらどう振る舞うだろう。

そんなことをリアルに想像する契機として、映像作品は強い影響力を持つ。しかも製作者たちが強い想いを持って作り込んだ映像作品なら、なおさらだ。

他でもない今、この作品を必死に作り上げた製作者たちに敬意を表したい。そして少しでも多くの「日本人」に、この作品を観て欲しいと心から思う。

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竹遊亭田楽
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