「しなかった」で失われる信頼
「何かをした」ことで、一瞬で失われる信頼がある一方で、「何かをしなかった」ことで、ゆっくりと確実に失われていく信頼もある。
前者はまだいい。本人にも心当たりがある場合が多いから。
後者はタチが悪い。「しなかった」ことは「しなかった本人」の意識に前傾化しにくく、しかも時間をかけて相手の中で不信が蓄積していくため、それをきっかけに相手から関係を切られたとしたら、それは「しなかった本人」からすれば、「青天の霹靂」である場合が多い。
「私が何をしたって言うんだ?!」
「何かあったんですか?!」
違う。
「何かをした」わけではない。
「何かあった」わけでもない。
「何かをしなかった」のだ。
他でもないそのせいで、信頼は失われたのだ。
だがこれを本人が理解するのは困難を極める。なぜなら「何かをしなかった」ということは、その「しなかった本人」にとって、その「何か」は「取るに足らないこと」「些細なこと」である可能性が高い。どころか、そもそも記憶にない、気づいてないことも多い。ということはつまり「認識の差」が問題の本質であるわけだけど、「認識の差」は双方による不断の努力、特に対話を通してしか埋まらないので、見通しは非常に暗い。
まだある。
「何かをした」ケースでは、明らかに相手の表情が曇ったり歪んだり、少なくとも認識可能な情報が出る。そこから学んで同じ過ちを回避することはまだ可能だ。
だが一方で「何かをしてない」ケースでは、そうした情報の伝達はほぼ皆無で、大抵はいつも通りの表情(場合によっては作り笑顔のこともある)で対応するのがこの社会では一般的で、「何でしないの!」とその場で怒りを表出するのは「大人気ない」とされる。だから、学びが起きにくい。同じ過ちは繰り返される。
「いやいやそれって相手の匙加減じゃない?相手が“あなたは〇〇をしてない”と言い立てれば、一方的に非難できちゃうじゃん!」
基本的にはそういうことなのだろうと思う。
それが嫌なら、「双方による不断の努力」によって認識の差を埋め、関係を築くしかない。
とはいえ幸か不幸か、この社会においては「関係を切る」ということのハードルが極めて高いおかげで、信頼が失われたままでも「関係」は継続しうる。信頼が失われてる以上、それを「関係」と呼ぶのは無理がある気がするが、表向きにはそこに「関係」があるかのように振る舞うことは可能だ。
まとめてみる。
信頼を失わないためには、「何かをする」を回避するだけではなく、「何かをしない」も同様に回避しする必要がある。
これは時間的にも精神的にも、大きな負担を伴うことだ。
しかも相手によって、その信頼の得失の分岐点である「何か」は、全く異なる。ある人からは信頼を得る振る舞いが、別の人からの信頼を損なう、ということは往々にしてある。
「みんなの信頼」を失わないなんて、無理ゲーだ。
私は日々、私の言動の一つ一つによって、ある人の信頼を得、ある人の信頼を失っている。この文章だってそうだ。ある人にとってはこの文章が私への信頼に繋がるだろうし、逆にこの文章が不信につながることだってあるだろう。それらを織り込み済みで、私は日々を生きている。
もし私の言動が、誰からの信頼も得られないものであったなら、私はとうにひとりぼっちのはずだが、ありがたいことに今のところそうはなっていない。それは、私の言動によって、ある人々からは信頼を得ている証左に他ならない。
だが先述の「信頼がすでに失われた“関係”」を続けていると、実は誰からの信頼も得られてない「ひとりぼっち」なのに、実は空っぽの“関係”によって表向きは素晴らしい仲間に囲まれているように見える、ということが起きる。
そうした人は、ある意味無敵だ。自身の言動によって信頼を失おうとも表向きの“関係”は続くので、信頼を失ったきっかけとなった「何かをした」「何かをしなかった」ということに自省的になる契機すらない。勢い、その言動や振る舞いは、表向きはそれらしくとも、粗雑で浅薄なものになりかねない。
私も信頼を失うのは怖い。
でも何をしたって、何をしなくたって、誰かの信頼を失うことになる以上、せめて「双方の不断の努力」によって関係を築ける相手と、対話を重ねながら、認識の差をなるべく埋めて、共に生きていく道を探りたい。その大事な相手の信頼を失う「何か」について、考えることをやめたくない。
信頼なんて目に見えないし数値化もできない。
ある見方では、言ったもん勝ちの世界にも見える。
でもちがう。
信頼は、相互的なもので、不安定なもので、危ういものだ。
関係を築く上での礎となる信頼が、不安定で危ういのは、怖い。
でも仕方がない。
その不安定で危ういものを、少しでも確かで頼れるものにするために、私は振る舞う。
そうするしかないから、そうするだけだ。