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俺の音楽変歴 〜邂逅のキャンパスライフ編〜
【前回までのあらすじ】
小中でピアノ、バイオリン、高校でギターを習うもどれも物にならなかった俺。諦めたシンガーソングライターの夢、成就しない恋、高校生活は終わりを告げた。
俺は一丁前に大学に入学した。
当時巣鴨にあった大学の専攻は中国語だった。中国語と英語が話せりゃ世界の半分くらいはイケんだろというピュアで真っ当な動機だった。
たまたま父親が買ってきたStéphane Grappelliというジャズバイオリニストの3枚組CDを聴いたのをきっかけに、突如バイオリン熱が再燃した。軽やかで楽器がひとりでに鳴っているような見事な演奏だった。鎮火した気でいた興味の火種は布団綿の中で静かにくすぶり続けていた。
ジャズバイオリンが弾きたかったけどジャズ研はみんなタバコをくゆらせてマイルス・デイヴィス的なアンニュイな表情を浮かべていた。いまだにセックスマシーンはおろかドがつくほどの童貞だった俺にはそのスモーキーな部室に入る勇気がそもそもなかった。
オーケストラの新入生歓迎コンサートを興味本位で聴きに行った。曲はブラームスの交響曲第2番(通称ブラ2)の第一楽章だった。
バイオリンやりたい
3歳の俺は確かにそう言った。
記憶が蘇ったのではない。そう言ったと確信せざるをえない感銘を受けたのだ。お世辞にもうまいとは言えない演奏だったが、巧すぎたら逆に感銘を受けなかったかもしれないし恐らく入部など考えもしなかった。
俺はオケ(オーケストラ)に入部した。
祖父譲りのバイオリンを物置きから引っ張り出し再開した。1年生のバイオリンは10人で男子は俺だけだった。7割ほどが女子という大学全体の人口比を考えたらそれほどおかしなことではなかった。
たがオケでは女子を下の名前で呼び捨てで呼ぶ慣習があった。俺は難渋した。うちの父親は母親のことを下の名前で呼び捨てにしない。今まで生きてきた18年で女子を下の名前で呼び捨てにした経験は妹のクミだけだった。長渕剛やサザンを歌ったこともなかった。エリーは呼び捨てに入るのだろうか。
俺の難儀を察してかユキコフ、ナオリーヌ、マイケルなど下の名前の変化形に落ち着いたケースも多かった。だが呼び捨てもじきに慣れた。当然のようにマリコとかリエとか呼び捨てられるようになった。
チヒロ先生とコボリ先生に対する罪を贖うかのように、俺は日がな一日部室で基礎練習に打ち込んだ。左の指をまったく押さえずただ弓で弦を弾くだけの「ボーイング」ばかりを繰り返した。長きにわたって無為に月謝を払わせていた親への申し訳なさを払拭しようとしていたのかもしれない。
手は相変わらず震えた。
あのときピアノの発表会で革命のエチュードと共にやってきた物心は、歳月を経ても落ち着く素振りは見せず、人前で楽器を弾くたびに大きな手の震えとなってガタガタと顕現した。
オケのバイオリンは大勢で同時に弾くので一人の音など聞こえやしない、にも関わらず本番では弓が弦の上で容赦なく暴れた。止めようと力を入れるとより激しく震えを刻んだ。
とはいえ毎日長時間稽古に勤しんだのでさすがに少しは上達した。音色はそこそこ綺麗に響いたが、速い動きはまるでだめだった。チャイコフスキーの交響曲第5番の第2バイオリンが人生初シンフォニーだった。今までまるで聴いてこなかったクラシック音楽を聴き漁り、ドボ8(ドボルザークの交響曲第8番)とかベト3(ベートーヴェンの交響曲第3番)とかショス5(ショスタコーヴィチの交響曲第5番)とか、オケ人の振る舞いやワーディングを体得した。
それでもジャズがどうしても気になった。
隣の部室はジャズ研だった。
サッチモ(ルイアームストロング)になりたくてたまらずトランペットを買い独学で始めた。オケのトランペットパートの人に奏法や練習法を聞いて、ひたすら吹いた。
幼少時から週2で泳いでたせいか俺は肺活量が6000ccありメキメキと上達し、始めて1ヶ月かからずにパズーが吹けた。屋根に上がってハトを放したいほど有頂天だった。
マイルス・デイヴィスのCDを聴いて演奏をコピーした。ジャズに詳しい人からマイルスは基本を逸脱してるので初心者はコピーしない方がいいと言われたが、そんなことはどうでもよかった。
トランペットは人前で吹いても手の震えが音色にあまり影響せず助かった。順調に上達していきオケのトランペットパートも舌を巻いていた。だがトランペットは日によって好不調の波が激しく、体力の消耗も激しかった。
飛び抜けた才能が特にない俺は、何かを選択する際に「死ぬ直前まで続けられるかどうか」という独自基準を設けていた。トランペットは残念ながらNOだった。歯が抜けて腰が曲がった俺が楽しく吹いている様子をイメージできなかった。バイオリンはStéphane Grappelliが80歳を過ぎても現役だったから問題なくイメージできた。
トランペットはひとまず辞めた。
憧れてた沖縄三線を買った。
東京生まれ東京育ちなのに沖縄に行くたびに「ただいま」と懐かしさが込み上げ、食堂のおばあは私にうちなー言葉で話しかけた。何ひとつ理解できなかったけど嬉しかった。東京でも顔だけを見て沖縄出身かとよく尋ねられた。親は両方京都だった。
楽器と一緒に買った教則本とDVDを参考に練習を重ねたら一ヶ月くらいで「安里屋ユンタ」と「てぃんさぐの花」の弾き語りができるようになり、三線欲はほぼ満たされた。
オケで俺がバイオリンを教えていた今の嫁さんに半ば連れて行かれる形で、Chieftainsというアイルランドを代表するバンドのライブを観に東京国際フォーラムへ行った。若い男性がバイオリンを弾きながら足だけでダンスを踊っていた。軽快なリズムと疾走するグルーヴ、そして何よりメロディが美しかった。
同じ彼女からMartin HayesというアイルランドのバイオリニストのCDを借りた。彼女もよくわからないままCDショップで買ったという。聴いたこともない不思議なバイオリンの音だった。技巧的にそこまで難しいことはしていないのに、何回聴いても飽きなかった。
大学の専攻は中国語だった。3年になり老舎という小説家の作品を原文で読み耽っていた。長編も短編も読み応えがあり、「老舎を読む会」というコアな集まりにも参加していた。
軽い気持ちで応募したら中国政府の奨学金がもらえることになり、中国に一年間語学留学することが決まった。
留学先は、音楽科のある大学だった。
【怒涛の中国編に続く】
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