「竹あかり」なのに竹じゃない?!
切った筒状の竹に穴を開けて中に灯りをともす「竹あかり」、色んな地域でやってて、今や「竹の利活用」の代表格とも言える活用法として、多くの人に親しまれている。
そのトップランナーとも言える方々がいて(情熱大陸にも取り上げられてた)、その大規模展示の一部の材料が、どうも竹を使ってないようで。
おそらく塩ビ管を使ってる。
それを「竹あかり」と銘打っているわけだ。
これは正直、首を傾げざるを得ない。
竹かごに置き換えて考えてみるとよく分かる。
梱包用のプラスチック製のPPバンドで、かごを編む人は多いが、それを「竹かご」として売ったらどうだろう。
「おかしいだろ」となる。私は少なくとも「おかしいだろ」と思う。
でもそれと同じようなことがまかり通っていて、むしろみんなその取り組みに快哉を叫んでいる。
私はおかしいと思う。
「クライアントの要望なら仕方ないのでは?」
「長期展示の場合、竹だとカビや割れが発生するから仕方がないのでは?」
「頼む人も作る人も観る人も、みんな納得してるなら問題ないのでは?」
「全て塩ビ管でやってるわけじゃないんだから、そんな目くじら立てなくても…」
「社員や家族を守るためには、仕方ないのでは?」
そんな声があることは私も承知しているし「経済合理性」という観点からは、そこに瑕疵はない。何も間違ってない。むしろ正しい。
でもその「経済合理性」によって、ウソが当たり前にまかり通ったり、人が奴隷のように扱われたり、天然資源が枯渇したり、戦争が起きたり、という現状が生まれていることを私は無視できない。
事実、その「竹あかり」の取り組みでも、夥しい数の竹の調達を、恐ろしいほど安いギャラで
請け負った知人がいる。それもまた「経済合理性」からは正しい選択かもしれないけれど、我々にはそれが「持続可能」だとは思えない。
竹は、その「経済合理性」からはみ出してしまった存在なのだ。
だからこそ、竹林は放置されている。
その事実を傍に置いたまま、「経済合理性」に適う形で竹を生かそうと思うと、必ず無理が来る。「竹でない方がいい」とか「誰かに無償で働かせるしかない」という結論しか出ない。それは論理的帰結であり、必然だ。
房総竹部は、竹や竹林に問題があるとは考えてない。むしろその「経済合理性」にこそ問題があり、それによって我々個人の尊厳は蔑ろにされ、バラバラに疎外化されている。そう考えている。
地球環境とか自然保護とか、そんな大きな話では全然なく、「経済合理性」の名の下に、個人の尊厳が蔑ろにされている。人を手段のように見做して、奴隷のように働かせることに、何も感じなくなっている。利益のためなら、事実と異なることを喧伝することに、抵抗がなくなっている。
その表現の一つが、「竹あかり」だと思っている。
「竹あかり」は、「経済合理性」に即して考えれば、「やり手」として賞賛に値するかもしれないけれど、我々とは見ている方向や景色が全く違う。現状認識も問題意識も、全く異なる。私から見ると、「竹あかり」はむしろ現状追認的で、社会が変わるどころか、むしろ問題を深刻化させている。
では、房総竹部は何をしているのか。
我々の取り組みは、「個人の活動」だ。システムもなければ立場もない。組織もなければルールもない。
「経済合理性」の名の下にバラバラにされた個人が、お互いの尊厳を回復し合い、共に生きていくための技術と関係を深めていく。房総竹部は、そんな活動だ。
分かりにくいのは承知している。でも誰もやったことがない以上、また何か確固としたポリシーやイデオロギーに基づいた活動ではないので、分かりにくくなるのは仕方がない。
このえらく長い文章を読んで、房総竹部の活動に少しでも興味が芽生えた方は、ぜひ会いに来てほしい。対面での実践を通して、我々の活動を感じ取ってほしい。
来年の竹細工講座、だいぶ埋まり始めてます。我々の対面での実践の場、ぜひ体感しに来てください。
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※ちなみにトップ画像は先日自分たちで作った100%竹製の竹あかり