灰人

素人と玄人を架橋する「灰人(グレート)」な私

素人と玄人の間の分断は深刻さを増している。

玄人は、素人の無知無能を嗤い、素人の浅はかさを侮り、素人の不真面目さにため息をつく。

素人は、玄人の傲慢さを蔑み、玄人の狭量さを誹り、玄人の優位性に疑いの目を向ける。

なかなかもって嘆かわしい事態である。

本日も竹を割りながら、その分断のもたらす悲劇に思いを馳せむせび泣いていたところ、ある妄念がぽかりと浮かんだ。

素人と玄人を架橋する灰人(グレート)

「しろうと」と「くろうと」の間だから「グレート」。竹を割る手元が狂い出血するほどのグレートアイディアである。ちなみに「はいじん」と読んではいけない。

灰人(グレート)とは、素人性と玄人性を兼備し、素人と玄人を架橋する存在のことである。

ふはは、何の引用でもないのに、さも意味ありげに引用表示にしてやった。グレーだし。

具体的な話をしよう。

私は昨年4月から竹細工を習い始め、今年の4月には自営をはじめ、習った技術を地域のみなと共有しようと考えている。つまり「先生」的な立場となるわけである。

「たった1年やそこらで教えられるかアホ」

「最低10年やってから教えれダボ」

「竹細工なめんのもたいがいにせえよウスラトンカチ」

こうしたお言葉を頂戴することはある程度予期できるわけだが、どうも勘違いをしているようだ。

私は玄人として教えるのではない、灰人(グレート)として教えるのである。

灰人(グレート)が教えるメリット その1

「つい最近まで素人であった灰人」

灰人はついこの間まで素人であった場合が多い。つまり素人であった新鮮な記憶があるわけだ。玄人の場合、この道○○年という人が多く、素人であった記憶がないどころか、生まれつき玄人であったような顔をして生きている人もおり、こうはいかない。

素人であった鮮明な記憶があるということは、素人の立場に寄り添いやすく、素人に対して共感的になれるわけで、これは教わる側の素人にとっては非常にありがたいことである。

灰人(グレート)が教えるメリット その2

「“そこそこの技能”しかない灰人」

灰人(グレート)は「卓越した技能」を持っているわけではない。あくまで「そこそこの技能」である。灰人である私の技能は全てそこそこである。

「卓越した技能」を持った玄人の場合、玄人が○○年続けてきたその何かを始める人がいた場合、それが他者であっても、「卓越した技能」の会得が暗黙のうちゴールとして設定されてしまう。

たとえば私の「そこそこの技能」であるヴァイオリンを例に挙げよう。

玄人の場合は「ヴァイオリンを始める」という情報があると、勝手に「コンチェルトを弾きこなしてソリストとして活躍すること」というゴールを設定してしまう。素人はそんなゴールが勝手に設定されているとも知らずに唯々諾々と従うが、道の険しさに精も根も尽き果て、半狂乱になった挙句、楽器を焚き火に投げ入れるのが関の山である。

だが灰人(グレート)はもともと「そこそこの技能」しか持っていないので、高いゴールなど設定のしようがない。素人時代の記憶も新しく、身近なゴールを一緒に目指すことができる。おお、まさにグレート。

灰人(グレート)が教えるメリット その3

「苦労知らずの灰人」

玄人は、それはそれは長きに渡り、その専門分野のために心血を注ぎ、辛酸を舐め、好きなあの子とのデートも泣く泣く諦め、Nintendo Switchも買わず、並々ならぬ努力の結果として、「卓越した技能」を手に入れた場合が多い。そのため玄人は、意識的かどうかは別として、素人が苦しむことを期待している。自分だけ苦労したという不公平に人は耐えられないのである。

だが残念ながら素人本人は自身が苦しむことを期待していない。

そうしたすれ違いの結果、「貴様二度とうちの門をくぐるな!おいお前、塩まいとけ!」と素人はあえなく玄人に追い出されるわけである。なんて可哀想な素人。

だが灰人(グレート)は、つい最近まで素人であり、「そこそこの技能」しか身につけておらず、たいした苦労もしていない。素人を苦しめるのは、ついこの間の自分を苦しめることに直結するので、なるべく楽しく続けられるよう工夫をする。

実例を挙げよう。

先日ヴァイオリンの路上演奏をしていたら、突然初老の男性が自転車で近づいてきて「ヴァイオリン教えてもらえませんか」と言う。どこの馬の骨ともわからない灰人である私に、なかなかの豪胆さである。半信半疑で連絡先を渡したところ、後日連絡が来て、先日初回のレッスンをしてきた。

「先生、教えるの上手ですね」

何を隠そう、私は楽器の構え方も弓の持ち方も弾き方もすべて常識外れであり、そもそも人様に楽器の弾き方などほとんど教えたことがない。だができない人の気持ちは誰よりもよくわかるので、玄人とは全く違うアプローチを選ぶ。

「先生、どうしたら弾けるようになりますかね」

来た。お決まりの質問だ。この回答で玄人と灰人との決定的な差が出るに違いない。

玄人ならば間違いなくこう言うに違いない。

「最初はとにかく基礎が大事です。退屈かもしれないけど、辛抱強くボーイングやスケールを繰り返すことが、結果としては上達につながるので、今はがんばって基礎練習をやりましょう」

うむ。明らかに素人が苦しむことを期待している。

だが灰人(グレート)である私の答えはこうだ。

ケースに入れないことですね。ケースに入れると、出すのもしまうのも面倒で億劫だから、そもそも楽器を出そうと思わないんですよ。出さないと弾けないでしょ。だから楽器は壁に掛けておいたほうが、気が向いたときにすぐ弾けていいですよ。」

これは私の経験則であり偽らざる所感であるが、玄人は口が裂けてもこんなことは言わない。なぜなら玄人は「楽器を出すのが面倒で億劫なら楽器なんか今すぐやめてしまえスカタン」と思っているからである。そしてもうひとつ。

玄人の楽器は高いのである。

何百万(場合によっては何千万)する高い楽器をケースに入れずに、壁にぷらりと掛けておくなどということは絶対にありえない以上、素人にそんな罰当たりな所業を勧めるなど彼らにとっては愚の骨頂である。

灰人(グレート)的なアプローチがお分かりいただけたであろうか。

同じ国で同じ言語を話しているように見えても、実は素人と玄人は全く別の言語体系の中で全く別の言語を話している。別の言語を使っている以上、そこには対話(会話ではない)が必要であり、その対話には時には通訳が必要となる。

その通訳の役割を果たすのが、素人語と玄人語のバイリンガルである灰人(グレート)なのである。

だが悲しいかな、灰人(グレート)は社会的に評価されにくい。私にとってはまさにgreatなのだが、どうも人によってはgrate(嫌な感じを与える)らしい。

「多芸は無芸」「下手の横好き」「浅く広く」「根性なし」「半端者」「ろくでなし」「甲斐性なし」まあ色んな言葉が四方八方から飛んでくること。

それでも私は、灰人(グレート)にとどまり続けようと思う。まかり間違っても、玄人になるようなことがないように、細心の注意を払いながら、真剣に怠け、ふざけ続けるつもりだ。

「お、グレートだね」

そんな褒め言葉が日常的に交わされる未来を夢見つつ、今日も私は「そこそこの技能」を習得するためのそこそこの努力に余念がない。

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竹遊亭田楽
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