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イヤホンと僕

今日、悲しい別れを経験した。
それは突然の悲劇だった。
大学の図書館のエレベーターを降りて、スタッフの人に話しかけようとイヤホンを外したそのとき、イヤホンの先っちょについてるイヤーカフがエレベーターのドアの隙間、というか窪みのような場所に落ちた。
「上に参ります」という音声とともにドアは閉まり、僕のイヤーカフはそのまま上がっていった。天に。
そうして僕は、今日一日、イヤホンなしでの生活を突然迫られた。

思えばいつからか、イヤホンなしでの生活ができなくなっていた。
家を出て駅までの徒歩中も、電車に乗り揺られるときも、はたまた散歩の時も、イヤホンをつける。イヤホンを家に忘れたり、充電が無かったりするだけで、憂鬱な気分になる。
それほどまでに、イヤホンというものは僕の日常に深く溶け込んでいた。

なぜイヤホンをつけるのか。
僕は「自分の世界に閉じこもるため」だと思う。
自分の好きな曲を、大きい音で再生する。
周りの音や環境には意識がいかなくなり、外にいる状態でも、自分と自分の好きな曲だけが聴こえる”自分だけの世界”に意識は在るから、外の世界と直接的には向き合わないでいいのだ。
イヤホンをつけて、曲をかければ、自分の聞きたくない音は聞かなくて済む。それは、蝉の鳴き声かもしれないし、電車のタイヤが軋む音かもしれない。はたまた、誰かが自分に怒っている声かもしれないし、親の喧嘩かもしれない。
そういった、外の世界と自分の世界とを簡単に切り離せる道具がイヤホンなのだと思う。
それが悪いことだとは思わない。
人によってはそれが救いにも、癒しにもなるからだ。
だけど、自分の世界に閉じこもってばかりで果たしていいのだろうか。

今日久しぶりに、イヤホン無しで下校した。
まぁ主体的な行動ではなく、強制的ではあったが、イヤホンをつけずに外の世界と直接触れ合ってみて、なんだか心地よかった。
車の走る音、風の音、自分の足音、歩くたびに聞こえるバックの中の筆箱が揺れて鳴る”カサカサッ”という音、駅の人混みの喧騒、電車の到着音、発車メロディー、電車の中ではしゃぐ小学生たちの声、サラリーマンのため息、階段を急いで降りる人々の音、学校の前で別れを告げあう中学生の声、スーパーの袋と衣服とが擦り合う音、自宅のドアが開く音、そして「ただいま」と告げる自らの声。
これまで聴き逃してた、あらゆる外の世界の音が直接耳に入ってくる。
ただの音ではない。人々が生きる音だ。
僕らは1人で生きているわけではない。幾千もの人々と共に同じ世界で生きている。僕はそれを改めて認識させられた。1人じゃないと感じたことが、なんだか心地よかったのだ。

もうイヤホンをつける生活なんかしない!なんてことは言わない。
僕はイヤホンで音楽を聴くのが大好きだし、それに何度も救われてきた。
だけど、たまにはイヤホンを外して、外の世界と直接向き合って、触れ合っていきたい。
世界に響く音に、生きる音に耳を傾けていきたいと思う。







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