Huggers(1)
沢渡 1
沢渡哲史(さわたりてつし)は、食卓に置いたタブレットのモニター画面をじっと眺めている。
動画サイトの画面は白黒で小さく、何が映っているのか判然としない。だがじわじわとカメラが寄っていくにつれ、画面の中央にいる小柄なショートカットの女性が妻の詩帆(しほ)であることは、見間違いようもなく明らかになっていく。
詩帆は長方形の白いメッセージボードを両手で持って、胸のあたりに掲げている。そこには黒いマーカーのようなもので、ただ「FREE HUGS」とだけ書かれていた。見る者がその文字を判読するのを待っていたかのようなタイミングで、カメラは引き始める。
それはJR山手線の渋谷駅の駅前で、詩帆が立っているのは駅から見てスクランブル交差点を渡りきった向かい側にある、大きなビルの前あたりだった。
近くに仲間がいる様子もなく、詩帆はそこにたった一人で立って、道行く人に向かってボードを掲げていた。
声は出さず、歩き回ることもなく、ただ必死な表情で何度もボードを上げたり下げたりしていた。人通りは多かったし、詩帆を見てけげんそうに歩調をゆるめる人も中にはいたが、ほとんどは無関心に通り過ぎていく。
2分ほどの動画が終わる直前、誰かがふいに画面の手前から、詩帆のほうにまっすぐに近づいていった。
背の高い男で、革ジャンを着てジーンズをはいているのはわかったが、カメラに背を向けているので年齢や表情まではわからない。男が両手を広げて近づいていくと、詩帆は満面の笑みを浮かべ、ボードを片手に持ち替えて、男を迎え入れるように両手を大きく広げた。二人が抱き合うと、白黒だった画面が一瞬でカラーになった。
唐突に動画が終わった。
沢渡は画面のリプレイボタンをクリックする。前と同じ動画が再生された。詩帆の顔が一番はっきりと映し出されるタイミングで、画面を静止させる。着ているのは去年二人で買い物に行ったアウトレットで、沢渡が詩帆に選んだクリーム色のワンピースだった。彼女はこのワンピースをとても気に入っていたのだ。
3回目のリプレイをクリックすると同時に着信音が鳴り、タブレットの画面の上のほうに「社長」という表示が出た。
沢渡は傍らに置いていたスマートフォンのほうを手に取った。
「もしもし」
「ごめん、寝てた?」勤務先の不動産会社の社長、長谷川恒太朗の声は、無駄に楽しそうだった。
「日曜の朝ですから」
「悪いねえ、沢ちゃん。休みの日にほんっと申し訳ないんだけどさ。世田谷の、辻さんとこのアパート? 行ってもらえないかなぁ」
「この前の日曜も僕だったと思うんですけど。桐尾はつかまらないんですか?」
沢渡の勤務先は社長1人に従業員5人の小さな不動産会社で、賃貸部門は沢渡と後輩の桐尾の2人が担当している。平日は交代で休み、日曜は毎月第2第4が一応休みだが、緊急の案件があると呼び出される。
「桐尾ちゃんさあ、蓼科にいるんだって。旅行で」
「はあ」
その話は疑わしいと沢渡は思った。桐尾は人当たりも外見もよく、仕事もそつなくこなす上に、こういう時の立ち回りもうまい。
「それでどんな急ぎの案件なんですか」隔週日曜が休みと知っているから、クライアントの大家たちも緊急でない限りは月曜まで待って電話してくる。
「トイレづまりだっていうんだけど」
「なんだ。じゃあ電話ですむじゃないですか。三京設備さんなら日曜でも来てくれるし」
「いやあ、それはそうなんだけど。この賃借人さん、何か事情があるみたいなんだよね。ちょうどいいから、誰か水道屋さんに立ち会って、ついでにちょっと話をしてみて欲しいって、大家さんが」
沢渡の会社は地元とのつながりを大切にするのがポリシーで、社長も商店会の組合で若手として活躍している。アパートの大家、辻信男は、先代の社長の時からの古いお得意さんだ。
「ほんとなら僕が行かなくちゃいけないんだけど、今日は順平のサッカーの試合で、嫁さんに将太を見てくれって頼まれてて」
40代後半の社長は再婚で、前妻との間に3人、2番目の今の妻との間に1人子供がいる。末っ子の将太はまだ2歳だ。今の妻は若いが気が強く、社長は全然頭が上がらない。
「いつも沢ちゃんにばかり頼んで、悪いとは思ってるんだよ、ほんと。桐尾ちゃんもいい子なんだけど、どうも君のほうが頼みやすいんだよね」
そう言われると悪い気はしなかった。アットホームな職場だが、桐尾は仕事は仕事と妙に割り切っているところがあって、沢渡も時々温度差を感じることがある。
「わかりましたよ。で、何なんです、その事情っていうのは?」
「西野さんて女性で、去年の秋から入居してるんだけどね。一人暮らしの看護師さんで、家賃もきちんと引き落としされているし、近所付き合いも問題ない。ただ、人の出入りが頻繁らしいんだ」
「特定の人間でしょうかね?」
「わからないけど、他の住人から、最近知らない人が郵便受けをのぞいたり、階段の下に立っていたりして気味が悪いって言われたそうだ。それで注意して様子を見ていたら、確かに1日に何人もが別々にその部屋を訪ねてくる日があったらしい。滞在時間は30分から1時間くらいだって」
「でも来客が多いっていうだけじゃ、何も問題にはならないんじゃないですか」
「まあともかく、ちょっと中をのぞいて、世間話の一つくらいしてきてくれない? それで辻さんも気が済むと思うんだ」
電話を切って、立ち上がった。牛乳を取りにキッチンの冷蔵庫に向かう途中で、リビングの電話台の上に張ってあるカレンダーの前で立ち止まり、可憐な白梅の写真の下にある今月の日付欄を見ながら、無意識にシールを探している自分に気づいた。妻はもういないから、そこにシールが貼られるわけはなく、第一、彼女は家を出る半年以上前から、シールを貼ることをやめていたのに、長年の習慣はなかなか抜けない。
それは毎年年末が近づくと詩帆が買ってくる、彼女の好きな写真家が四季の花を写したカレンダーで、予定を書き込むスペースが広くて使い勝手がよいので沢渡も気に入っていた。
不妊治療で病院に通っていた間、詩帆は毎月そのカレンダーに、「映画」「ランチ」などのシールに混じって「ドライブ」という車のマークのシールを貼り付けていた。沢渡家には車はない。それは排卵日の印で、その日の前々日、前日、当日と3日間、夫婦生活を持つことが、不妊治療の最初の一歩「タイミング法」と呼ばれる方法だった。
後から考えると、それはほんの始まりに過ぎなかった。それから6年間、数え切れないほどの検査、治療法の選択と決断、期待と失望を経て、詩帆は1年前、ふと「もういい。後は自然に任せる」と言って治療をやめ、保育士の仕事に復帰した。アルバイトの最初の日、帰ってきた詩帆は久々に晴れ晴れとした笑顔で「家にいて赤ちゃんのことばかり考えているより、実際に赤ちゃんと接しているほうがやっぱり性に合っているみたい」と言った。
そんな妻を見て、沢渡は正直ほっとした。子供が欲しいという妻の気持ちは尊重はしていたが、毎月できるだけ「その日」に向けて体調を整え、なるべく残業や出張が入らないようにし、多少風邪気味でも疲れていても子作りを最優先する生活には、息苦しさを感じていた。これからは以前のように気楽に、2人きりの生活を楽しもうと期待していた。
でも詩帆は、彼の前から唐突に姿を消した。(つづく)
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