長編連載小説 Huggers(18)
セミナー講師は「幸せとは何か」について挑発的に語る。小倉は発作の予兆を感じる。
小倉(3)
そろそろ限界が近づいていた。
何も書いていないホワイトボードを背にして、七十余名の聴衆を前に語っている永野の姿が次第にかすんで見えてくる。
氏名と、その下にSTAFFと書かれた名札を首から下げ、最近着ていなかったせいか、サイズは変わっていないのにどことなく体になじまないスーツを身につけた小倉は、ホールの壁伝いに目立たないようじりじりと移動し、四つある出入り口のうちの一番後ろのドアを目指した。
「つまり、胆に銘じていただきたいことは、ハグ・セッションはみなさんに幸せを運ぶ魔法なんかじゃない、ということです。みなさんそれぞれ、ちょっと思い出してみてください。みなさんが今までの人生で、ああ幸せだなって思ったときのことを。一度くらいはありますよね?」
参加者から笑いがもれる。永野はセミナー講師がよくするような聴衆を自分のペースに引き込む演出やパフォーマンスはあまりやらない。おそらくできないのだろう。やる気のなさそうなぽそぽそした話し方、所在なげにうろうろ歩き回る様子、それからおそらく緊張からくる、本人の意志とは無関係に予測不能なタイミングで浮かぶキュートな笑顔が、多少なりとも不安を抱いてやってくる人々の警戒心をいつのまにか解いてしまうのだ。
小倉の位置からは椅子にすわった参加者の後姿しか見えないが、ほとんどの者が永野に対して心を開きかけているのを感じた。
「それはどんな時だったでしょうか? 結婚式とか、子供の誕生の瞬間とか、大抵の人が幸せだと感じる出来事があるでしょう。自分の好きな趣味に没頭しているとき、子供の寝顔を見ているとき、好きな人に告白されたとき。幸せに感じる瞬間は、人それぞれです」
JR大阪駅のすぐ近く、梅田にあるこのシティホテルの十階には、広さの違う三つのホールがある。そのうち二番目に大きいホールを借りて行われている、ハガー協会の初めての公開説明会だった。広さは120平米といったところだろうか。学会向けに机を入れると七十名が定員だが、今日のようにシアター形式にいすを並べると百名は入る。
今日の参加申込みは八十二名だったが、実際に来場したのは七十名だった。
それでも小倉にとっては十分な圧迫感だった。背広の内側に手をすべらせ、内ポケットの中に忍ばせた頓服薬がちゃんとそこにあることを感触で確かめる。
第一部のトークは四、五十分だと言われていた。永野は比較的時間には正確だ。腕時計を見ると始まってからほぼ四十分が経過している。あと十分、と自分に言い聞かせながら、体は出入り口のほうへ向かっている。第二部の質疑応答に入る前に十五分の休憩があるから、それまでの辛抱だ。
「みなさん、思い出せましたね。では、考えてみてください。あなたにその幸福感を運んできたのは、一体何だったのか? 何が、あるいは誰があなたを幸せにしたんでしょう。それを特定できますか? ――お金や地位や名誉は人を幸せにしない。そんなことは、誰でも知っています。お金はあるけど孤独な人、高い地位についていながら自殺する人はおおぜいいます。では何が人を幸せにするんでしょうか? 具体的に考えてみたことはありますか? そんな暇はなかった。もちろん、そうでしょう。今まで、日々を生きていくことに精一杯でしたからね」
何人かの人々がうなずいているのを視界にとらえながら、ドアにもたれかかり、小倉は呼吸を整える。スタッフがそんなだらしない姿勢をとることは本来あってはならないことだが、今はそんなことを言っている余裕はなかった。
「ですから今ここで、考えてください。何があなたを幸せにしてくれるでしょう。あなたは何があれば幸せですか」
永野はそこで言葉を切り、参加者を見回した。
「どなたか、ご意見をシェアしてくださる方はいらっしゃいますか?」
最前列にすわっていた参加者が何か言った。
「愛」
その答えをみなに聞こえるように繰り返した永野の顔に、笑みが浮かぶ。見る者を魅了する、子供じみた開け放しの笑顔だ。
「いいですね。素晴らしい。そう、愛、大事です。でもちょっと漠然としてますね。もう少し具体的にみていきましょう。あなたにとって愛がある状態とは、どんな状態でしょう?」
永野は手を上げるしぐさをして参加者に意見を求めてから、目を上げて何かを探すようにした。当てられた参加者のところにマイクを持っていく者を探しているのだと気づいたが、あいにく会場の中にいるスタッフは今は小倉だけだった。永野は小倉の顔色を見てとっさに状況を理解したらしく、自らマイクを持って列の間を歩き出した。
「愛し、愛されるパートナーがいること」と若い女性が答える。
「家族に争いことや心配ごとがない状態、です」と言ったのは四十代くらいの女性だ。
「別居している妻が戻ってくること」最後に答えた五十代とおぼしき男性参加者の意見には同情のため息がもれた。
永野はそれらの回答にいちいち深くうなずきながら、ホールの前方のもといた位置に戻っていった。
「なるほど、愛のある状態は人によってさまざまなようです。でもひとつ、共通していることがあります。気がつきましたか?」
永野はいたずらっ子のような顔で聴衆を見回す。
「みなさん、愛のある状態というと、誰か他の人との関係をお考えになりますね。誰かから愛される、誰かを愛する。つまり中心になるのは、外側にいる誰かです。落とし穴は、ここです。幸せになれない原因はまさにそこにあるんです」
永野は先ほど「パートナー」と答えた若い女性の方を向いていった。
「あなたに素敵なパートナーが見つかりました。幸せです。優しい人で、収入もそこそこ。毎週デートをし、旅行にも行き、結婚の約束もしました。でもある日、彼があなたに打ち明けます。実は昔、人を殺したことがある、と。さあ、どうでしょう。彼はあなたを変わらず愛しています。あなたもまだ彼を愛している。愛は変わらずそこにある。でも、あなたは前と同じように幸せでしょうか」
それから永野は「家族」と言った女性のほうへ向きなおった。
「家族はいっしょで、みな仲良く暮らしています。でもある日あなたは体に異変を感じ、病院へ行きます。医師はあなたは重病だといい、余命数ヶ月だと告げます。あ、これはあくまでも仮定の話ですので、お許しくださいね。もちろん夫も子供たちもあなたを心配し、心から支えてくれます。愛のある状態です。でも、幸せは少しも減っていないでしょうか?」
最後に永野は別居している妻のことを話した男性にほほえみかけた。
「別居した奥さんが帰ってきて、あなたも許しました。元のように仲のよい夫婦になり円満に暮らしています。でもある日、奥さんにはひどい浪費癖があることがわかります。毎日借金取りがやってきます。奥さんはあなたを心から愛していて、あなたも奥さんを変わらず愛しています。それでもまだ、寸分たがわず幸せでしょうか」
永野はゆっくりとホワイトボードの前に戻っていく。
「そんなに極端な例を出さなくても、みなさん日常的に体験されているはずです。もうお気づきになりましたか。愛は、あるいはみなさんが愛だと思っているものは、幸せとは何の関係もないんです。それでは幸せは、どこから来るんでしょう? お金でも地位でも愛でもなければ、何が幸せを運んできてくれるんでしょうか」
永野はそこで少し間を置いた。
「幸せは、どこからも来ません。――なぜならそれは初めからそこにあり、一度もなくなったことはないからです。なんだあ、そんなこと知っているよ、とみなさん思われるでしょう。メーテルリンクの『青い鳥』を例に出すまでもなく。幸せは身近なところにある。でもこれは、知識で知っている、というレベルの話ではないんです。表層のレベルでそれを知っていても、何の役にも立ちません。いったんそれを深いレベルで理解すると、あなたはもう、外側のできごと、物質的な世界で起こっていることには惑わされなくなります。そうなれば、幸せな感覚というものは、ただ勝手に起こってくるんです。あなたが世間的に見て幸福だろうと不幸だろうと関係なく、またあなた自身の意志とも無関係に。自然に、意味もなく、泉のように湧き起こってくるものなのです。ハグは世界で初めて、修行や悟りを開いた師を介在することなく、物理的手段を用いてその最初の理解にみなさんを導くセッションです」
小倉はそこまで聞いて、そっとドアを開け、すばやくホールの外にすべり出た。
ホール前の廊下に誰もいないのを幸い、壁に背中をもたせかけ、右手で薬の入れてある内ポケットのあたりを上着の上から押さえた。その右手を左手で押さえて息苦しさと恐怖感がおさまっていくのをじっと待つ。二、三分すると気分がよくなってきた。
何とか大きな発作にならずにすんだことに安堵しながら、廊下の端にあるトイレに行き、じっとりと汗ばんだ顔を洗った。冷たい水の感触は気持ちを落ち着かせた。ほっとして顔を上げると、鏡の中の自分の顔の隣に、もう一人男の顔が映っていた。
(つづく)
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