長編連載小説 Huggers(53)
小倉は追いつめられてゆく。
小倉 8(つづき)
受信箱に見慣れない送信者からのメールが入っているのに気づいたのは、葬儀の次の日だった。送信者名にはHayate とだけ書かれていた。タイトルはMail from Hugger’s Network USAとなっている。
開いてみると、ずらずらと書かれた英文の下に、日本語訳が書いてあった。いくらか不自然なのはおそらく、日本語が彼の母語ではないことを示しているのだろう。
ハヤテという人物は代表の秘書をしていたということで、代表から小倉へ個人的なメッセージを預かっていると書かれていた。
胸が高鳴った。
常々、ハガーやホルダーは全部代表が一人で選んでいるとか、ハガーとホルダーの組み合わせは代表が一人で決めているとかの都市伝説のような話を永野から聞かされてきたが、小倉はずっと本気にしていなかった。
ハガーやホルダーが世界中に何百人いるのかは知らないが、その全部をひとりの人間が把握しているなどあり得えないと思った。だがこうして、代表の秘書と名乗る人物から直接メールが来たとなれば、永野の話はあながち冗談ではなかったのかもしれない。
小倉のメールアドレスを知っているのはハガー協会の関係者くらいだし、まさか彼らがいたずらをするとは思えない。何が書いてあるのかはまるで見当もつかないが、たとえ一行、いや一語のメッセージでも、これから先自分は一生、それを胸に抱いてホルダーを続けていけるような気さえした。
しかし、そこに示されたURLを何度クリックしてもこのリンクは無効であるという英語のエラーメッセージが出るだけだった。小倉はひどくがっかりした。一応、ハヤテにあててリンクが無効になっていると日本語で返信したが、数日たっても返事は返ってこなかった。
永野に問い合わせようかという考えが頭をかすめたが、行動には移さなかった。先日のミアの一件でどうにもかみ合わない会話を交わして以来、永野と話そうと思うとどことなく息苦しさを感じるようになっていた。
年明けの1月7日、代表の逝去による年賀欠礼のあいさつと共に、ハガー協会日本支部は、名称をあらため、日本ハガー協会としてアメリカのハガー協会から独立し、永野英夫を会長とする新たな体制でスタートするとのメールが配信された。
新しい幹部の名簿のなかにデレクの名はなく、新しくアウェイクンドとして西野裕子の名が記されている。
それを見たとたん、はっきりした理由がわからぬまま、怒りがこみ上げてきた。マウスを握った手がぶるぶる震えるほどの怒りだった。小倉は目を閉じ、心を鎮めようとした。
だが怒りは収まらず、それどころかますます燃え上がった。
小倉は乱暴に食卓の上の携帯をとり、電話帳を呼び出し、発信した。
「はい、永野です」
「メール見ました」
「ああ、西野……」
「僕聞いてません」永野の返事にかぶせるように言った。
「何も、ひとつも。西野さんを幹部にするって、いったいどういうことですか」
「代表の逝去にともない、デレクが本部に戻ることになりました。それで、日本にはアウェイクンドがいなくなるので、西野さんがその役を果たします。本人の了解はとれてますよ。西野さんから聞いてませんか?」
「聞いてません。でも本人が言わなくても、事前に、そちらから僕に断ってくれてもいいんじゃないでしょうか。本人が言わなきゃ何も伝わらないなんておかしいでしょう。西野さんの状況に変化があれば、当然彼女のホルダーである僕にも影響が及ぶんですから」
小倉の剣幕に驚いたのか、永野が一瞬、ひるんだ気配がした。小倉はすかさずたたみかける。
「それにアウェイクンドって書いてありますけど、西野さんは代表のハグは受けてないでしょう。代表が亡くなられた今、もう新たにアウェイクンドにはなれないんじゃないんですか? おかしくないですか?」
「その件ですが、後日くわしくお話しするつもりでした」
口を開いたとき、永野はすでに冷静さを取り戻していた。
「遅くなってすみません。私のほうも幹部の交代で、ちょっとバタバタしていて。西野さんについては、代表から生前に、ご自分のハグなしでもアウェイクンドとして認めるという正式な認定書が届いています。写しをメールに添付しますので、後でご覧になってください」
「そう……なんですか。それにしても、もっとホルダーの立場をはっきりさせてもらえませんか。あなたたちは、どうも僕たちホルダーをないがしろにしてらっしゃるように思います。ホルダーにだって、自分たちの生活があります。それをある程度犠牲にして、全面的にハガーをバックアップしてるんです。新体制を作るなら、その機会に、きちんと態勢を整えてもらいたいと思います」
「ええ、申し訳ありません。そのことは私も考えていました。ホルダーあってのハガーですから。きちんとスムーズにコミュニケーションがとれるシステムを構築します」
永野は神妙な調子で言った。
そう素直に謝られてしまえば、もはやそれ以上怒る理由は見つけられない。
「頼みますよ、永野さん」
と言って電話を切ったが、まだ腹立たしさは収まらなかった。どこかでわかっていた。真に問題なのは、事務局でも永野でもない。彼自身だ。システムがどうであろうと、ハガーとホルダーのコミュニケーションさえしっかりとれていれば、何の問題もないはずなのだ。
「くそっ」と荒々しく自分に悪態をついて立ち上がったとき、携帯が鳴った。画面に表示された名前を見るとそれは、ちょうどその腹立たしさの原因になっている当人だった。相反したふたつの思いが同時に胸に浮かんだ。
話したい。今すぐ彼女の声が聴きたい。
今、話すのはまずい。この気持ちをこのままぶつけてしまう。
携帯を手に持ったまま、着信音を聞き続けた。いつもの裕子なら、10回まで鳴らさず、数回鳴らして小倉が出なければ、気を遣って切ってしまうはずだった。だが今日に限って、彼女はなかなか切らなかった。20回分ほどの激しい心の葛藤の後、小倉は応答した。
「はい」自分でも驚くほどの事務的な声だった。
数秒間、裕子は黙っていた。それからあわてたような声がした。
「あ、小倉さん。ごめんなさい。何度も鳴らしちゃって、いま、大丈夫でしたか?」
「大丈夫です」
平静を装ったつもりだったが、声が不自然になるのを隠しきれなかった。
「お取込み中でしたら、かけ直します」となおも遠慮しようとする裕子に対し、かえって苛立ちが募った。
「大丈夫と言っているでしょう。話してください。用件はなんですか」
裕子に対してこんなつっけんどんな物言いをしたことは今まで一度もなかった。電話のむこうで、裕子が息をのんだ気配がした。
「あの、共振をお願いしたいと思ったんですけど」
声が微かに震えていた。
本来守るべき相手を怯えさせていることへの強い罪悪感と、本来その種の感情を抱いてはならない相手への強い思慕が、小倉を混乱に陥れ、感情の抑制を失わせた。
「でも、もしご体調が悪いようなら――」
「心配しないでください」小倉は言った。
「お願いだから、僕のこと、心配しないでください。気を遣わないでください」
「え?」
「みじめになるんです。わかってます。僕、信用されてないですよね」
「え?」
「信用してないから、何も言わないんですよね、西野さん僕に、大事なこと。沢渡さんのことも、アウェイクンドになったことも、幹部になったことも。何も言ってくれなかった」
違う、違う、違う。小倉は心のなかで叫んだ。
こんなことをいうはずではなかった。
「ちょっと、ちょっと待ってください。どうして急に?」
「僕、頼りないですか? そんなに頼りないですか?」
「小倉さん、そんなことありません。頼りなくなんかないです。すごく頼りにしてます。聞いてくださ……」
「気を遣われると、自分が情けなくなるんです。大丈夫ですかって、聞かれるたび、思い知らされるんです」
「何を?」
「僕は――」
携帯を持つ手が震え、落としそうになる。
「僕は急行電車に乗れません。こわいんです。不安なんです。各駅もやっとです。エレベーターも、髪を切るのも、歯医者も、いつも死ぬ思いです。だから仕事にも行けません。実家の世話になって暮らしてます」
電話の向こうで裕子が息を殺し、耳を澄ませているのを感じる。
「ホルダーなんて、エラそうにしてるけど、本当は一人では何もできない、世の中の役に何も立たない人間なんです。それどころか、僕には――逮捕歴があります。いかがわしい会社にいて、リフォーム詐欺であるおばあさんの家に何度も通って、取り入って、だまして、何百万も払わせたんです。不起訴になりましたけど。……それから、自殺未遂も何度もしました」
永遠に思える数秒間が過ぎたあと、勇気を振り絞ったような、裕子の細い声が聞こえた。
「小倉さん」
「はい?」
「共振してください」
「は?」
「共振してほしいんです」
「どうして?」
「今、小倉さんの共振が必要なんです」
必死な響きがあった。
「どうして今そんなこと言うんですか。僕は」
「関係ありません、電車とか、逮捕歴とか」
「え?」
「そんなの関係ありません。私には今、あなたが必要なんです。私のホルダーは、あなたしかいないんです。だから、今すぐ、共振お願いしたいんです」
裕子は泣いていた。
共振はもう始まっていた。温かで、静かで、甘やかで、優しい裕子の響きがすでに響き始めていた。同調するのは簡単だった。あまりにもなじみ深く、あまりにも心地よいその響きに自身を開きさえすれば、何もかもがただ一つに溶け合って、問題など何もなかったのだと発見する。いつもそうだった。
もう一度その響きに身を任せたい。何もなかったことにしたい、という激しい衝動にかられた。
ハガーとホルダー。そんな役割や関係にとらわれず、人と人、魂と魂として響き合えば、すべては自ずと整っていくはずだとわかっていた。
だが、痛みが彼を引き留めた。肉体を持つ人間としての痛みが、感情を持ち、傷つき、迷い、間違う自由を持つ人間の部分が、もう耐えられない、助けてくれと、悲痛な声を上げていた。
「僕の共振など、もう必要ないでしょう。あなたはアウェイクンドになったんだから」
「小倉さん?」
「あなたはもう、一人でやっていけます」
「無理です」
「西野さん、すみません。僕はホルダーを降ります。あなたのだけじゃなく、ホルダー自体をやめます」
「小倉さん、待ってください、どうか――」
「ごめんなさい。もう限界です」
「どうして? 理由を聞かせてください! 体調が、そんなに悪いんですか?」
「好きなんです」
小倉は言った。
「僕は――あなたが――好きなんです、西野さん」
「えっ?」
「好きになってしまったんです、女性として。――だからもうこれ以上、あなたのホルダーはできません。苦しくて。ほんとに、ごめんなさい」
急いで電話を切って、電源も切る。
パソコンも閉じようとして、開いていたメールソフトの受信箱に、新しいメールが届いていることに気付いた。
あのハヤテという男からのメールだった。
もう、関係ない。
小倉はそのメールを削除し、パソコンの電源を落とした。
(つづく)